JINSEI STORIES
滞仏日記「息子に日本語を教えてくれた先生」 Posted on 2019/05/12 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、息子には日本語の家庭教師の先生がいる。あまりそのことについて触れたことがないけれど、僕よりもずっと長くパリで生きてこられた女性で、年齢は訊いたことがないが、たぶん、僕よりもずっと年配の方じゃないかと想像している。息子が幼稚園に上がった頃か、小学生のはじめの頃からずっと日本語教師を続けてくださっている。僕と息子の二人きりになった後も辻家から離れることなく息子を支えてくれた。息子にとっては親戚の人のような存在でもある。彼がふさぎ込んで誰にも会いたくないような時期でさえ、Sさんの授業だけは続いた。そのおかげもあり、彼は問題なく日本語を喋ることが出来る。小学校の高学年くらいの漢字なら読み書きも出来る。Sさんは書き順とか、漢字とか、言葉の意味や使い方まできちんと教えている。まるで昔の小学校の国語の先生といった感じだ。
毎週、土曜日が家庭教師の日だったが、ここのところ不定期になってきた。一つは毎週土曜日に発生する黄色いベスト運動の影響があり、もう一つは息子が忙しくなってきたせいで。中学卒業試験や高校進学、それに学校の宿題の量が半端なく、それらをこなすと日本語を勉強する時間が奪われる。それでも、息子にとってはフランス語の方が大事なので、ここまで日本語授業を続けられたのはSさんのおかげだと思う。年の功というか長く生きてこられた歴史と安定感があるので、Sさんが我が家に日本語を教えに来てくださる時は、パリなのに、ここが日本のような空気感に変わる。多分、息子にとって、Sさんを通して知った日本は大きいと思う。Sさんは息子にとって遠い親戚のような存在でもある。
そのSさんが日本に戻る決意をされた。年齢的な問題があり、この先は国に帰って余生を生きたいと思われたようだ。僕よりもずっと長く、すでに何十年もパリで暮らして来られただけに、ご本人も寂しいのだろうが、おひとりで暮らされているので仕方がない。日本に帰れば親戚やご兄弟もいらっしゃる。在留邦人にとってこの問題はずっと付きまとう。僕も十年先、二十年先の自分の居住地について確信が持てない。そもそも、どういう人生を迎えているのかもわからない。ただ、Sさんの日本語授業が終わることは辻家にとって一つの歴史の幕が閉じるような想いもある。Sさんは8月の末でパリを離れるのだそうで、それまで、一回でも多く日本語を教えたい、とおっしゃってくださった。最後の日本語の授業まであと何回出来るかはわからないが、息子にとっては一回一回が大切な時間になる。息子が話す日本語の中に、Sさんが存在し続けることになるのだろう、と僕は想像をした。