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滞仏日記「パリで世界一のハンバーガーを食べた」 Posted on 2019/05/07 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、パリは快晴が続いた。気温は低いのだけど、心地よい春の晴天である。愛車のオイル漏れの点検のために昔住んでいた地区のガレージに車を預け、2時間ほどかかるというので、周辺を散歩することにした。エッフェル塔が見えるこの地区には10年ほど暮らした。馴染みの店ばかりで、懐かしい。パリの街並みはほとんど変わらないので、10年も経っているとは思えない。法令があり、美観を損なうような大きな看板を出せない。だから店が変わっていても気づきにくい。ついでにパリには電柱がない。パリの風景は変わらない。百年前と何が違うかというと走ってる車の違いぐらいだ。もちろん、住んでいた人だけが変わっていく。僕も引っ越した。そこに、今は誰が住んでいるのだろう。

かつてよく通っていたカフェの前で足が止まった。開店の準備をしている男がいた。近づき、背中をたたいた。ふり返ったジェレミーは笑顔になり、あ~、ツジ。サヴァ? と声をはりあげた。僕はジェレミーと握手をし、久しぶりだね、ちょっと車の点検に来たんだ、と言った。コーヒーを飲んで行けよ、と言われたので、店の中に入った。幼い頃の息子の一番のお気に入りのカフェだった。ここのハンバーガーがとっても美味しい。息子曰く、世界一、なのだそうだ。ジェレミーは息子の学校の先輩にあたる。だから、息子のことから話がはじまった。

「まじで? もうそんなに? 秋には高校生か、すごいね。信じられない」
「175センチくらいあるんだよ。息子がここに最初に来た時はたぶん、9才とか? こんなに小さかっただろ? あの頃は大変だった。君も知っての通り、でも、もう、今は見あげないとならない。人生ってのはすごいぞ」
「まだ二人で暮らしてるの?」
僕は笑って肩を竦めてみせた。ジェレミーの笑顔は最高だ。僕がシングルファザーになった時、料理を作ることもできない状態が続き、僕と幼い息子はここで毎晩ハンバーガーを食べなければならなかった。バンズが柔らかく、肉がジューシーで、確かに美味い。あの頃、僕は悲壮な顔をしていた。時々、ジェレミーが黙って僕にワインを出してくれたこともあった。そのいっぱいのワインの味が忘れられない。
「ツジ、実は今日の午後、サインをする。この店を手放すんだよ」
「今日? マジか? やめちゃうのか?」
「店の権利は売らないけど、ここの経営を人に譲る。というのは二人目の子供が生まれた。今、15か月だよ。可愛い。長いこと忙しかったからさ、妻に迷惑をかけ続けた。しばらく家族の傍にいることにした。で、落ち着いたら2件目をオーベルカンフあたりに出す。プロデュースみたいなことをやって、次々に店を出していく。でも、僕は店には立たないで遠隔操作をやる。いいだろ?」
そういうと、ジェレミーは息子さんの写真を僕に見せてくれた。どうやら奥さんはアフリカ系の方らしい。坊ちゃんはお人形さんのように可愛らしい。その子が遊んでいる動画を暫く一緒に眺めて、微笑みあった。膝の上に乗ったその子にピアノを教えるジェレミーはまるで若い頃のポールマッカトニーだ。そうだ、ジェレミーはポールに似ている。

僕はこの子にお祝いを贈らなきゃと思いつき、ちょっと、待ってろ、と言って店を飛び出した。二つ先の駅に子供用品の店があったことを思い出した。昔、息子のために子供服をよく買いに行った店である。僕はそこまで走った。快晴のパリの空の下を走った。そうだ、僕はパリの空の下で生きている。開店したばかりの子供服の店に飛び込み、一瞬で赤いジャンパーを買った。友達の息子に送りたい。プレゼント用の包装にしてください、とお願いした。可愛い箱に入れてくれて、リボンまでつけてくれた。僕はそれを掴んで、再びジェレミーの店へと走った。
「あ~、ツジ。スーパージョンティ(めっちゃ優しい)、メルシー」
僕はジェレミーと再び握手をし、ガレージに戻った。オイル漏れは見つからなかった、と店主は言った。17年も走っているのに、エンジンの状態はばっちりだよ、と太鼓判を押してくれた。支払いをして、僕はまた握手をした。青空を振り返り、あの赤いジャンパーを着た息子を抱くジェレミーの笑顔を思い浮かべた。馴染みの店があった。その店は僕と息子のお気に入りのカフェだった。毎晩そこでハンバーガーを食べたこともある。そこのハンバーガーは間違いなく世界一だった。 
 

滞仏日記「パリで世界一のハンバーガーを食べた」