JINSEI STORIES
滞仏日記「人生の教訓」 Posted on 2019/05/05 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、財布をタクシー(UBER)の中に忘れて、見つからなかったことが尾を引いて、朝から調子が出ず、息子のご飯を作った後、再び寝込んだ。その中に家の鍵が入っていたことが一番こたえた。財布の中には身分証明書のコピーも入っていたし、その鍵が泥棒の手に渡れば、名前が載っているので(身分証明書の住所は変更前の住所)、名前から調べようと思えば調べられるかもしれない。安全面を考えるとドアの鍵部を変える必要が出てくるが、今の家のドアは泥棒が絶対突破できない最新型なので、交換となるとどのくらい費用がかかるか想像がつかず、また、そのために時間や心を割かれるのも頭が痛い。財布に他に何が入っていたかも思い出せず、ぐったりの状態が続いた。
そういえば、前のアパルトマンに住んでいた頃、うっかり鍵を家の中に忘れてドアを閉め、鍵屋を呼んだことがあった。「彼らに突破できないドアはない」と聞いていたが、ドリルを使ってものの2分でドアは開き、新しい鍵に取り換えて、800ユーロ請求された。ちょっとした気のゆるみのせいで、その時も腑に落ちない結果を招いた。創作に集中している時、このようなうっかりが起きる。子育てや仕事が僕から余裕を奪うのだ。その時の後悔とトラウマがあり、僕は憂鬱だった。ランニングも出来ないし、仕事も手に付かない。ごろごろしていたら、夕方、電話がかかって来た。男の声で、一方的にしゃべりだした。え? もしかしたら、UBERの運転手さんか? 「ああ、僕です。さっき、もう一度、探したら、荷台(トランク)にあなたの財布を発見しました」と言うのである。彼が言うには、昨日の電話の時に後部座席を探したら見つからなかったけど、今日、これからパリ市内に向けて出かけようと再度点検をしたら、荷台部分に投げ捨てられていた、というのである。そのUBERはとっても不思議な車で、身障者マークのステッカーが貼られていた。後部座席の後ろに車いすを載せるスペースがあり、たぶん、日中は車いすに乗るお年寄りなどを運ぶ別の配車サービスで働いているに違いなかった。彼曰く、僕の後に乗った客が財布を発見し、金目のもの(後でよくよく思い出したら、支払いのために420ユーロが入っていたことが判明)だけ抜いて、財布を荷台に投げ捨てて出たのではないか、ということだった。
人を疑えばきりがないがあらゆる可能性が考えられた。僕は運転手さんのことをちょっと疑ってもいた。昨日は、探したけど財布はない、と言い張った。でも、今日になって出てきた、と言った。なぜ、出てきたと言ったのだろう。中はちゃんと見てないけど、鍵が入っていたが、あとはわからない、と彼は僕に説明をした。待ち合わせ場所を決め、彼がそこに届けてくれた。自宅の住所は教えなかった。多分、僕は警戒したのだと思う。待ち合わせ場所に時間通りに彼は現れ、財布を僕に手渡した。案の定、中身をチェックしたが、お金はなかった。「お金はなくなっているのか? 大金だったのか?」と彼は言った。身分証明者やカードのことは言わない。お金、とはっきりと言った。まるでそこにお金だけがあったことを知っている言い方に聞こえた。「大金が入っていたよ」と告げると「それは残念だ」と彼が神妙な顔で言った。僕は悩んだが、ポケットから50ユーロ札を取り出し、届けてくれたお礼です、と伝えて渡した。運転手さんは驚き、いや、貰えない、と言い張った。僕の中には二つの選択があった。一つは彼が盗んでいるかもしれない、でも、良心の呵責が芽生え鍵だけは返そうと思い直してここまでやってきたパターン。もう一つは物凄くいい人物で本当のことを言って行動をしているパターン。過去に同じような経験をした友人がその後、「フランスの場合、運転手さんが時間を割かれたのである程度の料金(潰された時間に対する等価)を要求したりするのが普通だ。要求はしなくても差し出されたお金は当然の権利として受け取る」と教えられた。でも、僕の目の前にいる運転手さんは手を振って、受け取れない、と固辞している。どこか申し訳なさそうな顔に見えた。電話の時、その電話の背後から子供たちの声が聞こえた。いいお父さんなんだろうと思った。身障者の人の配車サービスをして、夜はUBERで働いている。僕は彼がお金をとったと思う自分に対して、すっきりしなかった。なぜなら、フランスで財布が戻って来ることは非常に稀だからである。彼がもしもお金を盗んだのであれば、僕に疑われるのを分かっていながら、わざわざ届けに来たのはなぜか?
僕は「このお金はあなたが財布を届けてくれたことにかかった時間への償いです」と言った。運転手さんは一度目を伏せ、それを受け取った。「ありがとう」と僕は言い残し、彼と別れた。人生には様々な教訓がある。僕が今回、学んだことは小さくなかったと思う。そのことのために支払った金額だったのだろう。今、手元に家と車の鍵がある。明日からまた日常が戻って来る。一番悪いのは不注意で財布をそこに置き忘れた自分なのだ。ここは日本ではない。戻って来ることは滅多にないのだから・・・。「はい、以後気を付けます」と僕が僕に約束をした。