JINSEI STORIES
滞仏日記「欧州でビズが上手にできるようになるための豆知識」 Posted on 2019/04/29 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、午前中、ライブのチラシ(フライヤーかな)が刷り上がったのでパリ市内に配りに行った。スタッフが足りないので僕もビラ巻きに参加した。アミューズランティスヨーロッパの向田さんとデザインストーリーズの編集さんが右岸並びにオペラ地区を回り、僕は左岸のアジア系のカフェなどを担当した。ほとんどが自分の行きつけの店だが、今まで自分がミュージシャンであることも作家であることも名乗ってこなかったので、いきなりカミングアウトするような恥ずかしさに見舞われた。しかも、自分のライブのチラシなので、顔写真が使われており、猶更恥ずかしかった。ええ? あなたミュージシャンだったのね、と驚かれた。ライブをやる会場が有名な場所だったこともあり、反応は悪くなかった。でも、三件くらい配ったら疲れてしまったので、それを口実にテラス席に陣取り、ワインを飲み始めてしまう。
温かくなってきたので、僕がロゼワインを飲んでいると息子のクラスメイトのお母さん、オディールに声をかけられた。すらっと長身のいかにもフランスマダムというスタイルだ。幼稚園から一緒の友人のお母さんなので、僕は立ち上がり、ビズをした。このビズというのはキスではない(キスでもいいのだけど、ビズはもう少しフランク)、頬と頬をくっつけるこちらの親しい人だけがする挨拶だ。人によって本当に異なるのだけど、だいたい、相手の左頬に自分の右頬を軽く押し付け、その反対にもするのが基本。人によっては左、右、左と三回になったり、右、左、右だったり、アフリカのやつだとおでこの左右をぶつけあったりする。(アフリカ式は一部のミュージシャンがやってるだけで、他で見たことはないけど、結構痛い)ごく親しい人にはビズなんだけど、頬にキスをするような感じになる場合もあり、親密度の差によって、頬をくっつけない人とか、いろいろである。男同士でももちろんビズはする。
ちなみにオディールとは長い知り合いだし、二人で食事をする関係でもあるから、彼女とのは結構親密なビズの部類に入るかもしれない。しかし、このビズという挨拶はスマートでないといけない。かつて、日本人の中年男性が女性とビズをすることに命燃やしている人がいたけど、そういうのは本当によくない。さりげなくスマートに出来てはじめてこの国では認められる。だいたい(人によるけど)男性側からするのだが、このタイミングが実に難しい。自然に出来るようになるまでには時間と経験を要する。ビズは阿吽の呼吸のようなものがあり、ほぼするかしないかは、0,1秒で決まる。初対面の人間でビズをすることは滅多にないけれど、それも場所と雰囲気によって異なり、いきなりビズということも何度かあった。場の空気感を見極めることをフランス人は幼い頃から勉強しているのだ、このビズという挨拶によって。
「オディール、これ」
僕はコンサートのチラシをオディールに手渡した。
「クール! 会場はラ・ブール・ノアールね。ここ、若い頃に良く通っていたライブハウスよ。凄いね、必ず行くわ」
「ありがとう。ノートルダム大聖堂のチャリティコンサートなんだよ。パリの人たちに寄り添うためのライブだからね、友達も誘ってね」
僕らはカフェのテラス席で小一時間ほどワインを飲んで別れた。もちろん、別れる時にもビズをする。唇をならすこともある。チュッと音を立てる感じで、わざと。キスはしていないけど、キスを送るよ、みたいな関係の人にだけ、僕は心を込めている。頬を通してオディールのぬくもりが自分の頬に残った。