JINSEI STORIES
滞仏日記「何かが僕を救ったのだ、とその時に思った」 Posted on 2019/04/28 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、珍しく何もする気が起きない。起きようと思うのだけど、起き上がる気力さえない。そういう日はだいたい今日が早く過ぎればいいのに、と投げやりになる。僕はだいたい前向き過ぎるのだ。自分に厳し過ぎる傾向がある。物事に妥協できないから、疲れるのである。これはただ事ではない。なんとか日記は書いたけれど、書きかけの小説に手を付けたくない。頭が痛いので頭痛薬を飲んでベッドに寝転がった。どうやら僕は疲れ切っているようだ。そんな日もある。今日は休んだらいい、と自分に言った。思えば、僕は休んだことがない。旅行に出かけても何もしないということがない。気が付けば取材をしているし、撮影をしたり。どこでも仕事が出来る作家という職業のせいであろう。だから時々、電源が落ちるように、僕は気力をいきなり喪失してしまう。何のために生きているんだ、と自問してしまう。こんな一生に何の価値があるんだ、と僕が僕を責めたてる。おいおい、ほっといてくれ!
僕はベッドから起き上がれず、長いこと窓から差し込む光りを見つめていた。辛うじて、午前中、家の周囲をいつものように走ることは出来た。身体が重い。いつものように軽快に足が前に伸びない。しゃきっとしなかった。ランニングの後、仕事場のソファに崩れおちて、再び動けなくなった。人間というものは何に向かって生きているのだろう。何がしたいのだろう? 幸せというけれど、いつか死ぬのだから永遠の幸せなどは存在しない。とにかく僕はネガティブな思考に支配されてしまっているようだ。だから、自分を全否定してしまう。自分が必至で頑張っていることに対して皮肉しか生まれてこない。
お昼に、息子がやって来て、昼ご飯どうする? と言った。親としてやらなければならないことがあった。僕は身体も心もきつかったが起き上がって、キッチンに行き、冷蔵庫を漁って、パスタを拵えた。二人きりのいつもの食事の時間となった。僕は息子に向ける言葉さえなかった。すると、食事が終ろうかという頃に息子が、「高校生になったら、ロマンと二人で日本全国を縦断していいかな」と言い出した。僕はそっと彼を見つめた。
「パパ、それが今の僕らの夢なんだよ。ロマンは日本が大好きだし、日本は僕の心のふるさとだから、彼を案内したいんだ。京都や大阪や福岡、出来れば北海道とか東北、沖縄なんかにも連れて行きたい。きっとその旅が僕らに物凄く大きな何かをギフトしてくれるような気がしてならないんだよ」
輝くような笑顔で語る息子を僕はぼんやり眺めていた。計画を一生懸命語る息子の言葉の一つ一つの中に、僕が生きてきたことが間違いじゃなかったという幸福が潜んでいることに気が付いた。息子は食べ終わると席を立ち、自分が使った皿とコップをキッチンへ片付けた。何かが僕を救ったのだ、とその時に思った。こんなどうしようもない一日だが、まだ僕は見離されていないと思った。気が付くと、僕は微笑んでいた。日本を旅するロマンと息子の姿が頭を過ったからだ。今日はこれでいい、と僕は自分自身に向けて告げた。こんな最悪な日なのに、こんなに素晴らしいことも起きるのだから・・・。よかったじゃん、と呟いたら、なぜか目元が濡れてしまった。