JINSEI STORIES

滞仏日記「フランスで生きたいと思う方々への温かい忠告」 Posted on 2019/04/27 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、今日は午前中ペンキ屋さんがやって来た。僕が東京に出張中のあいだに子供部屋と玄関に水漏れがあった。この国はなんでもまず保険会社が動く。とくにこの水漏れに関しては全て保険会社任せとなる。今回の水漏れは上の階の食洗器が原因だと判明した。面白いのは家の中での水漏れの場合、借主が払い、壁の向こう側が問題の場合は大家の保険が適応となる。今回の原因が食洗器だったので上の人の保険で支払うことになった。で、さらに面白いのは(実際には面倒くさいのは)僕の保険会社が全てをやらないとない、という点だ。とにかくそういうルールなのだ。僕の保険屋がペンキ屋と水道管屋に依頼し、検査をして見積もりを立て、それを僕の保険屋が上の階の人が入ってる保険会社に請求し、向こうが支払うことになっている。そのために、まず最初に両者の間で覚書のようなものを交わすことから始める。フランス語が話せないとそもそもここで躓く。

実は自動車事故の場合も全く同じことをやらされる。僕は14年前、パリから一時間ほど郊外の田舎町に滞在中、息子のミルクを買いに出たところで夜勤明けの消防士さんにぶつけられた。猛スピードで突進してきて、彼が僕の車のボンネットに擦ったのだが、軽自動車だったので彼の車の方が大破した。僕の車はほぼ無傷だった。当時、渡仏間もない頃で、僕は仏語を喋ることが出来なかった。するとその町のヒーローである消防士を守るために、田舎のお爺さんお婆さんたちが家から出てきて、この日本人が一旦停止をしなかった、と言い出した。たぶん。それで彼の身内の田舎のお回りさんらが駆け付け、そういう書類を作成した。車に積んであった保険の書類に僕はいいなりにサインさせられ、僕が入っていた保険会社が、彼の保険会社と話し合って、僕の保険が適応されることになる。去り際に消防士さんが近づいてきて「ソーリー」と小さく謝った意味がわかったが、全ては後の祭りだった。

その時の悔しさがあるので僕はこういう時には絶対負けないガッツを発揮するようになった。生きるということはこういう面倒くさいことを乗り越えてこその勝利である。午後、小さな勝利の知らせが届いた。実は今、駐車場が一時的に借りれなくて、愛車を路駐している。警察に申請をすると結構広い範囲(たとえば僕の場合、住んでる区の半分くらいをカバー)で一年から三年の期間区域内ならどこでも自由にとめることができる。とめ放題で週9ユーロくらいだ。ところが先月、車のフロントガラスに駐車違反の紙きれが挟まれていた。かつては警察関連のセクション(たぶん退職後の警察官たち)がやっていた業務が去年から経費節約で民間委託となった。その結果、質が下がり、ミスが連発している。厄介なのはなぜか抗議する窓口がないこと。泣き寝入りをすると何十ユーロもの罰金がとられるばかりか、そもそも法律を守っているので怒りが収まらない。実はフランスはこういう不条理な問題が結構あって、それを乗り越える気力がない人にフランスでの生活はあまりお勧めしない。ネット(仏版yahoo!知袋のようなサイト)で調べて同じような問題で苦しんだ人たちの解決までの道のりを熟読してから僕は尊厳を取り戻す作戦に出た。とにかくありとあらゆるデータと記録を付け合わせて市役所に書留で送ると二週間後くらいに結果が通達される。僕のところに届いた手紙に「あなたの支払いは取り消されました」と書かれてあった。よっしゃ~~~、こら、わかったかぁ、てめえらぁぁぁ、日本人を舐めるな、と壁に向かって鼻息荒く声を張り上げた後、僕はそのメールを冷静に印字して机の保管箱に仕舞った。こういうのが後にまた蘇って、「支払いがされていません」通知が来ることもあるので・・・。でも、僕は心が広いし、何事も勉強だと思うので気にはしていない。こういうことでうんざりするようではフランスで生きてはいけない。

ところでペンキ屋さんは距離を測るレーザー光線計と壁の湿度を測る小型機器を取り出し、水漏れの状態を調べ出した。僕と息子はその様子を見守った。「残念ながら、百パーセントの湿度ですから、これが乾くまでペンキはぬれませんね。乾くまでに最低で半年はかかります」という最悪の結論を宣告した。白亜の御殿(嘘)のような家だったが、水漏れの茶色い染みを見ながら最低冬までは暮らさないとならない。その後は暫くペンキの匂いが続く。こういう不条理がしょっちゅう起こるフランスで、あなたは生きていく自信がありますか?

滞仏日記「フランスで生きたいと思う方々への温かい忠告」