JINSEI STORIES
滞仏日記「パパはユニバースが足りない」 Posted on 2019/04/04 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、気力を出すのに最適なのはランニングだと思い込んで(気力がない時は思い込むのが大事)、まず気持ちのいい日を選んで走りはじめた。これが全てのはじまりだった。滞っていた気力が流れ始め、爽快感や達成感を連れてくるばかりか、走り終わったとの充実感が最高だった。だから、朝だけじゃなく、気が付けば夕刻も走るようになった。今日、夕方家を出て走っていると交差点で信号待ちをしている見覚えのある男がいたので近づいたら息子だった。「へーい?」手を振りながら走っていくと、ちょっと気まずそうに目を逸らされたので、慌てて自分の恰好をみると、マスク、フード被って、ぼろぼろのジャージ姿だった。息子は恥ずかしそうに、大声出すのやめてよ、と言った。父ちゃんは高らかに笑い、小さなことで悩んでいる息子の肩を叩き、青年よ、大志を目指せ、と言葉を投げつけた。わけわからないから、と呟き歩き出す息子の背中に、おやつはキッチンにある。勉強ばかりするな! たまには外で暗くなるまで遊んで来い!、と叫んだ。いい迷惑だったようだ。
シャワーを浴びてると息子が「友達の誕生日なのでプレゼントを買いに行かなきゃならないのだけど、お小遣い貰ってもいい?」と言った。シャワーから出て30ユーロを渡した。フランスは物価が高いので30ユーロじゃ何も買えない。スーパー行くついでにボーグルネル(商業施設)まで送ってやろうか、と言うと、ありがとう、と素直に応じた。夕飯前、二人で買い物に出かけることになる。土曜日、彼はガールフレンド君の誕生日会に招かれている。招かれているのは息子一人であった。ガールフレンドの誕生日プレゼントを買うこと、つまり選ぶことは人生のいい勉強になるので、一人で探させることにして父ちゃんはコーヒーショップのカウンターで時間を潰した。CDでさえ15~20ユーロもする、ノートなどの文房具もフランスは驚くほどに結構高いし、30じゃ服は買えないし、ちょっと酷だったかな、と思った。でも、いい勉強になるので一時間はほったらかした。息子にはお小遣いを与えていない。必要なものが出たら、パパとネゴシエーションをしなければならない。パパが納得出来たら買う、というルールだった。16歳からカードを持たせ、年間の予算を作り、その金額でやらせる予定だが、15歳まではまだ子供扱いであった。一時間待っても戻ってこないので、30ユーロで買えるものがないことをそろそろ悟ったのだろうと思った。そこで僕はリーバイスに行き、馴染みの店員のケビンを掴まえて、まもなくここに息子が来るから、それまでに彼のガールフレンドが喜びそうなものをいろいろと紹介してくれないかと依頼した。「予算は?」「30」「じゃ、これしかない」。一番安くてちゃんとしたTシャツが30ユーロだった。するとそこへ息子がやって来たので、僕とケビンがそのTシャツを推薦したところ、いいね、となった。「パパ、なんでわかったの?」「お前な、パパは何年人間やってると思ってるんだよ」と言っておいた。プレゼント用に包装してもらった。ケビンは相変わらずいいやつだ。
夕飯の時間になったので、せっかく遠出もしているし、施設内のレストランに入り向かい合った。ガールフレンドのことや、学校のこと、友達について、将来のこと、趣味の音楽について僕らはいつも以上に話し合った。すると息子が突然、僕の仕事を批判し始めた。「パパの音楽ってさ」こういう言い方をする時はだいたい批判の始まりである。「何かユニバースが足りないんだよ。もっとパパにしか作ることのできないユニバースを出した方がいい。日本の音楽って、全部どれも同じに聞こえる。ロックも歌謡曲もポップスもラップでさえ境目がないというのか、テレビの影響が強すぎて、同じ、綺麗事で終わってる。そういうものの中にパパがいて偉そうにしているのはよくない。まだ若いし、チャンスあるし、冒険をしないとだめだよ。せっかくパリにいるのに、何してるの?」
僕は一瞬、頭に来たけど、その通りだと思ったので、がんばるよ、とだけ言っておいた。「お前もそれだけのことを言うからには物凄いユニバースだせよ」と言った。「人のやらないものを作ることの方が真似するより楽しいことを僕は知っている」と言った。僕は笑い出した。誰に似たのだろう、と思った。すると、息子が「僕はパパに似てきたね」と呟いた。やれやれ。でも、ユニバースという単語の広がりが僕は好きだ。楽しくなってきた。