JINSEI STORIES
リサイクル日記「転んでも、どうやって起き上がるかが大事」 Posted on 2022/06/20 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、昨夜、夜中に眠れなくて窓を開けたら、満天の星…
空に何かがいると思ったら、星たちが競うように輝きあっていて、大昔に北海道の知床岬で作家、立松和平さんと一緒に見た星々のことを思い出してしまった。
パリだと絶対に拝むことのできない星たちの競演、あまりに美しすぎた。
フランスの田舎の過疎の村だから、人がいないとこんなに星が美しいのである。
2時間くらい星を見上げて過ごした。こんなに輝いていても写真はとれなかった、遠すぎてピントがあわない、笑…
なんでもかんでも写真で残そうとする悪い癖だ。
目に焼き付けて帰ればいい。
今朝、昨夜の星々のことを反芻しながら、ぼくは起きた。
パリに残してきた息子に、大丈夫? と送ったら、うん、と戻ってきた。
そろそろ、パリに帰ろうかな、・・・。
ぼくは生まれてから何度目になるのか、わからないけれど、またしても、ベッドから起き上がることになった。
よっこらしょ。
そうだ、毎朝、人間は起き上がる。
これだ、これが大事だ、とぼくは思った。
八転八起という言葉を思い出した。
これは子供の頃に七転び八起きについて考えているうちに僕が辿り着いた人生の在り方、佇み方の一つでもある。
七転び八起きと七転八起とは同じ意味で扱われるが個人的には違うと思っている。
七転八起は状況を説明する場合にも使うので、ポジティブにつかいたければ七転び八起きの方が現在を励ます言葉としてはふさわしい。
ところで、七回転んだのならば七回起きるのが普通だが、この諺の素晴らしいところは(諸説あるけれど)人間が生まれた時に起き上がることを一度目として換算しているところであろう。
今を生きる我々には、七転び八起きがもっとも納得できる言い方かもしれない。
しかし、いずれ人間が死んだ時にはもう一度転ぶ(寝るということ)じゃないか、と思ったひねくれもの辻少年は「最終的に人生は八転八起なのだ」と結論づけた。
これは八回転んで八回起きればいいという意味ではない。
赤ん坊が立ち上がって、その赤ん坊が人生を全うしてこの世を去るまでの人生にはいろいろなことがある、という意味だと思ってもらえたらいい。
ポジティブな意味は一切ない。
でも、与えられた人生を八転八起だと思うことで生きることの尺度がわかり、与えられた意味を深めることが出来、また、その時々で真剣に人生に向かうことが出来る。
人間は毎回、起き上がる必要はない、と僕は思って生きている。
七転び八起きじゃなく、七転び一度寝てからの八起きくらいがちょうどいい。
落ち込んだら、すぐに起き上がらず、倒れた野原の上で大の字になってちょっと頭を冷やしてから、ゆっくり起き上がれという意味に僕は変換してつかっている。
その上での八転八起の人生なのだ、ということであろう。
正確には八起八転ということになるが、どちらでもいい。
すべては言葉のあやなのだから…
まこと言葉とは巧みなものである。けれども、その言葉の中にはコトダマ(言霊)が宿っている。
さてと、起き上がったぼくはいま、これを書いた。
起き上がれない日もあるだろう。
なんとか起き上がることのできる朝もあるだろう。
元気をよく起き上がりたいものだけど、いろいろな朝がこれからもやってくるだろう。
それでも、ぼくはきっと起き上がる。
よし、と気合いを入れて起き上がるのだ。