JINSEI STORIES
自主隔離日記「カッチーーーーン、百連発」 Posted on 2020/10/17 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、今日は朝から超不安定だった。
いつも突然、不安になり、心だと思うけど、どっか胸のあたりが不調になる。
父ちゃんだって人間なのだから、不安定になる時もある。
自分がおかしい時、人は、自分が普通じゃないことに不安を覚えるものだ。
父ちゃんはもうそれをずっと抱えて生きている。
この性格、誰かと共に生きていくのは難しいこともわかった。
なかなかこういう面倒くさい人間を理解できる人はいない。
もうそれはよくわかったので、偏屈なままでいいよ、と自分を許してやった。
誰にも迷惑をかけないで生きて行こうと決めたら楽になった日のことはよく覚えている。
たぶん、今、自分が不安定なのは、日常がなくなったせいだと思う。
人間にとって日常はとっても大事なもので、朝に目が覚め、子供を学校に送り出し、部屋の掃除をして、食洗機の中から洗い終わったお皿とかコップを取り出して元の場所に戻し、洗濯機に息子の服をぶち込んでボタンをし、行きつけのカフェに行って、ピエールとかロマンとか馴染みのギャルソンとくだらないやり取りをして、一杯のコーヒーを飲んで、買い物をしてから家に戻り、昼食を食べる。
そういう毎日がないことで不安定なのだった。
「連絡をよこさないでもいいけど、うん、とか、すん、とか言ってこい」
何日か前に息子に送ったメッセージだ。
実にその通りだ、と思ったら、カッチーーーーン、と怒りがこみ上げた。
あの野郎、連絡くらいよこせよ、と怒っている自分に、ちょっと安心を覚えた。
人間、怒っていい。怒ればいいよ。ぼくが許す。
昨日、ちょこっとだけ返事が戻ってきた。
その時のやりとりが上になる。
かなり、カッチーーーーン、とくる一言である。
東京に出る直前、「パパ、チャーハンの作り方を教えて」と頼まれたので、本格的に教えてやったのに。
カッチーーーーーーーン。
向こうから教えてと頼みに来ること自体珍しいことなので、この話題なら食いついてくるだろう、と思ってメッセージを送っておいたのだが、一言だけ、「ない」という返事。
「ない」? それはないだろ。
文法も変なうえに、このやる気のなさ、どうなんだ。
カッチーーーーン
ぼくの気持ちがわかってもらえますか?
ぼくはずいぶんと頑固おやじになってしまった。
もしかしたら、孤独だから息子にちょっかいを出して、面倒くさい父親になっているのかもしれない、とふと考えてしまった。
携帯をとりだし、息子に送ったメッセージをスクロールしてみた。
「おーい。返事しろ」
「パリは土曜日から夜外出できないからな、必要なものは学校帰りに買っておきなさい」
「何かあればリサかオディールのところに連絡するように」
「お前、生きてんのか? この野郎」
「もしもし、お元気ですか?」
こりゃあ、たまらないな、と思った。
こういうメールが続くと思春期の息子はいやだろうな、と読みながら思った。
そして、返事が戻ってこないことで腹が立った。
あの子も可哀想だ。
こんな偏屈おやじが父親なのだから、と考えて、ちょっと目元が湿った。
この宿は素晴らしいけど、ここには日常がない。
自分のキッチンが好きだなぁ、と思った。
それで夕方、ちょっと長いメッセージを息子に送りつけてやった。
「パパは思うのだけど、パパも生きているので、たまに苦しくなる時があるんだよ。でも、パパはパパだからよわねをはけないんだ。おまえが小さかったころ、パパは決めた。ぜったい子供の前では泣かないって。父親というのはそういう生き物だ。覚えとけ。おまえもいつか父親になるかもしれない。おまえは幼いころから、ぼくは家族を誰よりも早くもって幸せになるんだ、と言いつづけていた。それはとってもいいことだ。おまえがパパになる時、すこしだけ、パパの気持ちがわかるだろう。パパはいつも怒っているけど、それは、おまえのために怒ってる。おまえはめんどうくさい父親だと思うだろう。それでいいのだ。パパいがいに誰がおまえをめんどうくさくさせられるか? そういうことだ。パパはおまえにめいわくはかけないから、安心をしていい。ただ、パパがしんぱいしていると思う時はうそでもいいから、へんじをしろ。それが子供のしごとだ。わかったか、クソガキ」
あんまり食べる気がしない。
ジュリアンがたくさん、買い物をしてきてくれるので、食材はもう十分すぎるくらい集まってしまった。逆に冷蔵庫に入りきれないので、腐らせてしまう。
ものを腐らせることが何よりも嫌いなのである。
ジュリアンの母親が彼にもたせた差し入れの料理も目の前にある。
でも、家族がいないと美味しいものでも、喉を通らない。
早くおうちに帰りたいなぁ、と愚痴が飛び出してしまった。
もう食べ物は何もいらない。
それより、ぼくはちょっと不安定なのだと思う。
やることがないから、夕方、変な時間にまた寝てしまった。
夜、目が覚めて、
ジュリアンのお母さんのメグ太郎の差し入れ弁当を食べていると、
ちん、と携帯がなった。
誰だろうと思って覗くと、お、息子からで、でもメッセージじゃない。
な、なんと、チャーハンの写真であった。
コメントはないのだけど、二枚、続いて来た。
この写真が伝えてくる息子の気持ちがよく伝わる写真であった。
「うるさいな、ちゃんとわかってるよ」
ということであろう。
カッチーーーーン。
チャーハンの作り方を教えてやっと時、たまたま海老しかなかったのだけど、ハムがあればハムの方がいいかもね、と言っておいた通り、ハムで作っている。しかも、最初に送られてきた写真にはない、二枚目には餃子付きだ。冷凍餃子に焼き色を作るのはちょっと難しいのだぞ、でも、焼き色を上手に付けられるようになると一人前だ、と教えておいた通りの焼き色であった。皮パリに出来ている。思わずニヤっとなった。連絡はないけど、順調に生活しているようである。ならば、それでいいのだ。
一日も早く、日常を取り戻さなければ、と思った。
とりあえず、ビール!