JINSEI STORIES
滞仏日記「パリの美術館で、ぼくは失われた時間を彷徨う」 Posted on 2020/09/18 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、今日は画廊に招かれ、友人の書道家のベルニサージュを堪能させてもらったが、そこはフォーブル・サントノーレ通りに面した建物の5階にあるプライベート画廊であった。
自宅の一部をギャラリーにしていて、バルコンに出ると目の前がアメリカ大使館という目も眩むような立地、要は限られたコレクターの為だけの画廊なのである。
いわゆるホワイトキューブの画廊じゃなく、絵がサロンにそのまま置かれてあり、コレクターには一流シェフによる料理やワインがふるまわれるという特殊なスタイル。パリという都市の芸術の奥行きを見た気がした。
初代画商のファビアーニさんはピカソの画集を編纂した人で、キスリングがその人を描いた1949年作の肖像画の時を超えた色彩が目に焼き付いた。
その絵を眺めているうちに、自分が美術館に行くのが大好きで、昔はよく通っていたことを思い出した。
今は出不精になったので、残念だけど、年に一度くらいしか行かなくなった。
なかなか出かけて行って感動できる、というか、心を動かされるような芸術というものを見つけ出せなくなったせいもあるのかな。
それだけ、自分は無残に年を取り、鈍感になり、ピュアじゃなくなったということかもしれない。
20代の頃に行ったピカソ美術館とかグッゲンハイム美術館は衝撃的で、とくにグッゲンハイムは開館と同時に入場して閉館までいたことがあった。
25歳の時のことである。その後もニューヨークに行く度、足繁く通い詰めたものだった。
画家が描いた一枚の絵の中に込められた想像力の結晶を発見するのが好きだった。
絵ももちろん好きだけど、芸術品が展示された美術館の佇まいとか空気感に引き寄せられていたような気がする。
額縁の中の絵画より、その絵を少し離れた場所から眺めている人間とか、めっちゃ、好きだった。
パリだと、オルセーが好きだ。展示物の質の高さと壁の色と薄暗い照明の角度、これらのバランスが好き。
マイヨール美術館も大好きで、ここは作品展のセレクトが面白い。グランパレで見たボルタンスキー、ポンピドーセンターで見たアンゼルム・キーファーは震えた。
パリは世界中の画家が立ち寄る美術駅だから、ある意味退屈しないし、逆に、向こうからやって来るので、行かなくなった、ということも言えるかもしれない。贅沢病である。
ぼくは美術館だけは一人で行くことにしている。
誰かと一緒に行って、時間とか、気にしたくないからだ。
自分を掴まえて離さない作品に出合ったら、ずっとその作品の前にいたい人間なので、誰かがいたら気が散ってダメ。
絶対一人で行く。芸術とは何か、とか語りたくはないし、美術を勉強したこともないので偉そうなことは言いたくないけど、ぼくが「これは本物の芸術だな」と思うのは、ぼくをそこから暫く動かさなくさせるもの。理屈はわからない。
芸術はぼくにとって人間と似ていて「好き」か「どうでもいいもの」かのどっちかでしかない。めっちゃ好きな芸術以外は全部、今はまだ気にならないものということになる。
「辻さんにとって小説とは何ですか?」
とよく質問をされる。この手の質問が苦手なのは、その人があまり考えずに問いをぶつけているからかもしれない。でも、実は、ぼくは明確な回答を持っている。
「ぼくにとって小説とは人間です」
残念だけど、それ以上は言えない。そこから先は想像をして頂きたい。
パリには沢山の美術館があり、芸術作品が展示されているけれど、好き、と思えるものは1%もないかもしれない。
好きな作家のものでも、本当に好きなものは1%くらいじゃないか、と思う。
それでも、凄いことじゃないか。
大勢の人が芸術作品を生み出している。それが世界中の美術館に展示されているわけだけど、その中からたった一つ、ぼくを捉えて離さない作品に出合える時の喜びといったらない。
人間が、自分と同じ人間が、こんなものを想像したのか、という驚き、そしてそれがカンバスに描かれている奇跡、に生きてる間に出会えたラッキー、まさに美術館がぼくに与えてくれるギフトなのである。