JINSEI STORIES
滞仏日記「みんな、ある日、大人になる。それは素晴らしいことだ」 Posted on 2020/09/16 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、今日、散歩から帰ってキッチンに行ったら冷蔵庫周りが濡れていた。
調べたら、冷凍庫のドアがちゃんと閉まってないことが判明。
ガスコンロの上に何かを調理した後のフライパンが置いてあった。
どうやら、息子が冷凍のサーモンを焼いて調理したようだった。これは素晴らしい。
9月1日、新学期と同時に、息子は自立することを学び始めている。
しかしだ、サーモンを冷凍庫から取り出したのに、ちゃんとドアを閉めなかったがために氷が解けて水浸しになった。
こうなると、冷凍庫の中に霜が付くので霜取りをやらないとならない。
辻家の教訓「今日付いた霜は今日のうちに取れ」
鉄は熱いうちに打てということである。これをほったらかすと、ガチガチになって凝固しとれにくくなるし、ドアが閉まりにくくなって、電気代が高くつく。
そこで、ぼくはお好み焼きのコテでガンガンとることにした。
こんなこと、と思われるかもしれないけれど、冷凍庫の霜取りくらい大変なことはない。
やったことのある人にしかわからない重労働、腰が悪いぼくにとって、冷凍庫の天井の霜取りのなんとも苦痛なことか、、、
「冷凍庫のドアくらいちゃんと閉めろよ、ボケ」
と大声を張り上げながら、30分くらいかかってやっとドアが、すーっパタンと閉まるようになった。やれやれ。
夕方、学校から戻ってきた息子が今度は洗濯をしはじめた。それは素晴らしいことだ。
自分の服を自分で洗濯できるようになることは自立の第一歩である。
そういう意味じゃ、食事も作れるようになったし、洗濯も出来るようになった。
ところが息子は昨日も洗濯をしていたような…
ちょっと多すぎるので、息子の部屋に注意しに行った。
「洗濯機を一回回すと、数百円の電気代がかかるんだけど、お前洗濯し過ぎちゃうか? いつも、環境問題がどうのこうの言ってるくせに、こんなに洗濯機使っちゃだめだろ」
すると息子が、
「だって、パンツ3枚しかないんだもの」
と言った。
「パンツ、3枚?」
「靴下、2足」
「マジか」
※今、こっそりと子供部屋に行き、箪笥を調べたら、靴下は3足ありました。3足に、訂正させてもらいます。
そういえば、最後にこの子のパンツを買ってやったのはいつだったか、思い出せない。考えてみたら、長年、ほったらかしにしていた。靴下2足って、かわいそ過ぎる。
「なんで言わないの?」
「背が伸びるから、どんどん、はけなくなってるんだ」
「言えよ。買ってやるから。悲しくなるだろ。洗濯機こんなに使うなら新しい下着や靴下くらい、ガンガン買ってやれるし、パパが日本に帰った時に、4足千円の靴下とか、3枚千円のパンツとか、ごそっと大人買いしてきてやる」
「パパ、いいよ、お金くれたら、予算にあわせて自分がはきたい下着を買うから。ぼくはいつも“かりべんくれーん”をはいてるんだ。知らなかった?」
「かりべん? カルバンクラインのことか?!」
「うん、それそれ。パパの発音悪すぎるね」
自分も家を出て、東京に上京した時のことを思い出した。たしかにあの頃からぼくは自炊をしはじめた。
今では何でも作ることが出来るぼくだけど、家を離れて一人暮らしをした頃はハムエッグくらいしか作れなかった。
米のとぎ方を習い、炊飯器を買った。仕送りのお金やアルバイトのお金でやりくりをした。息子は今、自立しようとしているのだ、と思った。
父親と二人暮らしであることが、彼を他の子よりも少し早く自立へ向かわせているのかもしれない。
パンツが3枚しかない、というのに気づいてやれなかったのは大失敗だった。
男親としてちゃんとできなかった自分を恥じた。
なかなか息子のパンツの数までは数えられない。シーツを換えてやるくらいがぎりぎりかもしれない。
これが母親だったら、もう少しべったりとやってあげられるのかもしれないけど、男同士ってなんか気恥ずかしいところがある。
言葉では言えないものがある時は邪魔をし、ある時はいい風をふかせるのだ、難しい。
だから、息子は自立を進めているのだと思う。ぼくから巣立つ速度を上げているのだ。
しかし、全体でとらえるとそれは恥ずかしいことだろうか、いいや、全体的に見ると、それはとっても素晴らしいことだと思う。
ぼくもいつまでも、母親役と父親役の掛け持ちは出来ない。
彼が自立してくれれば、ぼくも自立できる。実はぼく自身、子育てをしながら自分の人生を軌道修正してきた。
この子が自立してくれれば、ぼくはそこから第二の人生を模索することになるだろう。それはもう、そんなに遠い日のことじゃない。
息子が自らの意志で、自分がはきたいパンツを買った日を、パンツ記念日としよう。
サラダ記念日じゃなく、パンツ記念日だ、これは泣ける。