JINSEI STORIES

滞仏日記「はじめての抗体検査、息子は結果にがっかり」 Posted on 2020/09/13 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、朝、キッチンに顔を出したら、息子がガス代に向かって料理をしていた。
後ろの料理台の上にお弁当箱が置かれてあった。中におにぎり型で作ったと思われるおにぎりが4つ…。
また、パパのためにご飯を作ってくれているのか、と思った。でも、おにぎり4つはちょっと多い。
体調が悪いふりをこれ以上してはいけない、と思った。
「あの。またパパのために、お弁当作ってくれてるの? 嬉しいけど、おにぎり4つは食えないなぁ」
と声をかけた。爽やかな顔で息子が振り返り、申し訳なさそうな笑顔で、
「あ、これ、パパのじゃないよ」
と即座に否定されてしまった。
「あ、そうなんだ? じゃあ、誰の?」
「今日は午後から、ガールフレンドと公園でピクニックするんだよ」
「ピクニック?」
「彼女、日本のお弁当に興味津々なんだ」
「あ、だから、おにぎりの握り方や卵焼きの作り方をパパに訊いたってわけか?」
息子が照れ笑いを浮かべながら、料理に戻った。
「うん、彼女が日本の文化にハマってて、お弁当食べたそうだったから」
「だから、昔の弁当箱ひっぱりだしたんだ?」
「そうそう」
「パパの体調を心配してお弁当を作ったんじゃなくて、練習のついでに作ってくれたんだね? もしかして」
「そうじゃないけど、結果としてはそうなるかな」
ぜんぜん美談じゃなかった。一昨日書いた日記を削除しなきゃ、と思ったら、泣けてきた。
「でも、パパ、もう元気そうだね」
「おかげさまでね、ありがとう。お前が作ったお弁当のおかげだよ」
息子は幸せそうに弁当を作っていた。やれやれ。



「そうだ、パパ、マスクがそろそろなくなるけど、マスクないと外出できなくなるよ。薬局まで買いに行ってもいい? 消毒ジェルも買わないとならないし」
「ああ、いいよ」
「ついでにコロナの抗体検査受けない? そこの薬局でやれるんだよ」
「検査? そんな簡単に出来んの? アポもないし、処方箋もないのに」
「いらないよ。行けば誰でも出来る。PCR検査も場所によってはタダなんだよ」
たしかにフランスは検査数が半端ない。PCRは一週間で100万テストなので、当然、感染者数は増える。
「ほら、抗体を持っていたら、びくびくしないで済むじゃない。自分が今、抗体を持っているかどうか、過去に新型コロナに罹ったかどうか知っておいたほうがよくない? 角の薬局で受けられる。一人19€だよ」

滞仏日記「はじめての抗体検査、息子は結果にがっかり」



PCR検査は今現在自分がコロナに罹っているかどうかを調べるものであり、抗体検査は過去に罹ったことがあるかどうかを調べるものだ。
今現在がどうかは、抗体検査では分からない。でも、いきなり、抗体検査と言われてびっくりしてしまった。
「PCR検査じゃなくて?」
「PCR検査でもいいけど、今、感染者が急増しているからね、ラボ(検査機関)で並ぶのはちょっとリスキーだよね。熱もないし咳も出てない、明らかにぼくらは今、罹ってないんから。でも、抗体検査は薬局で簡単に出来るし、クオリティも高くなってる。今日は土曜日だから、ガラガラだと思うし」
「でも、なんで急に?」
「一つには、一日の感染者が一万人になった今、自分たちの感染対策が間違えてないかどうかを知る手がかりになる。もう一つは経験だよ。ぼくよりも、パパのことが心配なんだ。パパは若くないし、抗体を持っているかどうかで、これからのコロナとの向き合い方も変わってくる」
「お前、面白いこと考えるな。とても高校生の考え方じゃない」
「実は医療関係の学校で学んでるガールフレンドのアドバイス。抗体検査、抗原検査、PCR検査などのことに詳しい。だから、ぼくも経験しておいてもいいかな、と思った」
「やれやれ。お前は影響されやすい奴だな」
ということで土曜日の朝、ぼくらは薬局へと向かうことになる。



土曜日の朝、10時半に近所の薬局にいた。店主が応対をしてくれた。
日本が大好きとその女性店主はしきりに日本の文化について褒めたたえていた。
嬉しかったけど、ぼくは落ち着かない。はじめての抗体検査なのだから…。
ぼくらは奥の小部屋に案内された。日本だとちょっと考えられないシステムだと思った。医師でもない薬局の人が目の前で採血をする。まずぼくから受けることになった。マダムの前の椅子にぼくは座らされた。抗体検査キットをはじめてみた。皮膚に差す針と採血のスティックと、COVOD19と印刷されている4,5センチほどの白いプラスティックの検査器がワンセットだった。
「どの指にする?」
「え? あ、どれでもどうぞ」
ぼくはなぜか左手を出した。マダムは中指を掴まえ、消毒し、迷わず、針を刺した。
針と書いたが、筒状の装置でパチンと音がして、ホッチキスみたいな感じで、皮膚に穴が開く。
「これ痛いですか?」
と訊いたのに、それには答えないで、パチンとやられた。
「人によっては痛いけど、どう?」
「結構、痛いっす」
この有無を言わせない感じがフランスだと思った。息子が携帯で写真を撮りながら笑っている。容器の中にぼくの血を入れた。
「結果出るまで10分だから。はい、次、息子くん」
息子は一月末にずっと咳き込んでいた。ぼくはその時、東京で仕事だった。ニコラのお父さんが家までやって来てくれて、救急医を呼んだ。扁桃腺炎という診断だった。

滞仏日記「はじめての抗体検査、息子は結果にがっかり」

滞仏日記「はじめての抗体検査、息子は結果にがっかり」



だから、息子が感染をしている可能性はあった。ところが、結果は二人ともネガティフ(陰性)。※写真のigGというところに赤い線が出ると陽性ということらしい。ぼくは陰性で喜んだが、息子は陽性じゃなかったことに、がっかりしていた。
「抗体を持っていたら、しばらく罹らないのに」
と残念がっていた。
「実は罹らなければいいっていうのも、今はちょっと違って、薄く罹り続けてコロナに強くなることも大事なんだけど、ま、これでよかったのかな。歳のパパに感染させないことが大事だからね」
「パパは嬉しいけど」
「うん、それはよかった。定期的にやっていけば、安心できるんじゃない?」
どのくらいの頻度でやればいいのですか、と薬局のマダムに訊いたら、なんかちょっと調子悪い日が続いてたな、と思ったら受けに来ればいいのよ、と教えてくれた。
「でも、心配なら、いつでもどうぞ」
「日本人はこういうことに異常なほど神経を使うんですよ。だから、また来月、来ます」
ぼくは高らかに宣言をして薬局を出ることになる。

息子は弁当箱を持ってガールフレンドとピクニックに出かけてしまった。風通しのいい公園でお弁当を食べるのなら、問題はない。いってらっしゃい、と送り出した。
はじめての抗体検査、いきなりの予定外だったけれど、陰性という結果に、ぼくはちょっと喜んでもいた。ロックダウン以降、今まで貫いてきた防衛策に間違いがなかった、と一つの結果が下されたのだから…。 

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