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滞仏日記「弱音を吐く」 Posted on 2020/09/10 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、今日はぜんぜんダメダメのボロボロだった。どんなにダメダメだったかというと部屋が散らかりまくっているので、掃除機をかけないとならないのに、掃除機が重た過ぎて持ちあがらず、途中で動かせなくなり、食堂に放り出したまま掃除をやめてしまったのである。
「パパ、掃除機なんでここに出しっぱなしなの? ぶつかるよ、危ないじゃん、」
と学校から帰ってきた息子に注意されたが、返事は出来なかった。掃除なんかできるかよ、バーカ、と心の中で呟いていた。悪い心に支配された最悪の父ちゃんだった。

滞仏日記「弱音を吐く」



なんか、ぜんぜん、気力がおきない。何年もかかって準備してきて大団円の山笠シーンを撮影し終えてる映画はコロナで中断しているし、還暦記念のライブも最初は台風の直撃で延期、今度はコロナで再延期なんてひどすぎるし、頑張っても頑張っても叩きのめされる毎日だ。誰も悪くないけど、自分も含めみんなちょっとずつ悪いのだ、と思った。



ご飯の時間になっても、動けないので、ベッドでゴロゴロしながら、天井を眺めている。思わず、今日までの半生を振り返っていた。ぼくは目標を失ってないか? いったい、どこへ向かいたい? 何をやりたいというのかわからない。自分のバーカ、と思っていると、息子がドアをノックした。
「パパ、ご飯どうすんの? もうこんな時間だけど」
「パパ、力が出ないんだよ」
「わかった」
こんなことはじめてだった。今までどんなことがあっても、どんなに体調が悪くても、息子のご飯だけは必ず作った。それだけじゃない。キッチンは裏切らないとかいつも偉そうに言ってるくせに、ぼくはキッチンを裏切り、ご飯を作るのを放棄してしまった。買い物にも行ってないので、冷蔵庫にはまともなものが入ってない。あいつは腹を空かせている。それでいいのか、情けない。でも、力が出ないのだから、どうしようもない。主夫をやめたい。なんで、ぼくの人生はこんなに苦しいのだ。ずっと天中殺が続いているような毎日だ。一生、こんな人生生きていくなら死んだほうがましだ、と思った。すると、ノックの音がした。
「パパ、ご飯だよ」



ご飯? 
ドアがあいて、息子が顔を出した。
「はじめてご飯炊いたから、べちゃべちゃだけど、食べる? 別に無理しないで、置いとくから、食べたくなったら、食べなよ」
「作ったの?」
食堂に行くと、テーブルの上に皿が並んでいた。卵焼き、ご飯一膳、冷凍の鮭を焼いたのだろう、三つに折れて割れているのがお皿に載ってる。ご飯があるのに、なぜかフライドポテトもあった。料理をしたことがない息子が、材料もない冷蔵庫を漁って、工夫して作ってくれたのである。ぼくは自分の席にとりあえず、座った。

滞仏日記「弱音を吐く」



「パパ、人間だもの、パパは超人じゃないんだよ。休んでいいよ。美味しくないけど、食べよう。栄養つけて、また明日から頑張ればいいじゃん」
「うん。あのさ、ご飯、一膳だけど」
「ぼくは食べたんだ。これはパパの分だよ」
「フライドポテトもあるね」
「栄養付けてよ」
息子がビールを持ってきてくれた。
「パパ、クイズ」
「ん?」
「世界で一番強い国はUSAだよね?」
「知らねぇよ」
「じゃあ、二番目に強い国は?」
「なんだよ、それ?」
「だから、フランスの高校生の間で流行ってるクイズなんだよ」
「分かんないよ。興味ないし」
ぼくは箸を掴んで、鮭を一口頬張ってみた。美味い! 悪くない。へーと思った。
「正解は、USB」
息子は、明日試験だから、と言い残して自分の部屋に入って行った。鮭はバターで炒めてあり、檸檬と醤油がかかっていた。卵焼きは仄かに甘かった。美味しかった。ご飯もたしかにちょっと柔らかいけど、美味しかった。よく噛んだ。もぐもぐと噛んだ。涙が溢れ出そうになった。すまん。
「USBか、くだらな過ぎる」

たまには、弱音を吐きたかった。きっと、すっきりしたはずだ。ぼくがダメダメだと息子が頑張るということが分かった。食器も洗ってくれたし、よし、明日は頑張ろうかな。おやすみなさい。

滞仏日記「弱音を吐く」

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