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滞仏日記「恩義を忘れる日本であってほしくない」  Posted on 2020/09/08 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、今日もまたいろいろと大変な一日だったが、大変なことというものはよく飽きもせず、毎日、手を変え品を変え襲ってくるものだ。
苦笑さえ起きてしまうが、何とかその一つ一つを捌いて、くつろいでいたら興味深いネットの記事が目にとまった。
普段、あまり読まない芸能欄のニュースである。タレントの上沼恵美子さんがよくスタッフさんらに焼き肉をごちそうするらしく「それが皆さんいやいやだったというのが週刊誌に出た」のだそうで、その内容によるとスタッフさんらは「むりやり肉を食べさせられていた」ということになる。
ぼくは、こういう記事をたまに拾って斜め読みする癖がある。
しかし、今日は思わず、引き込まれてしまった。
御馳走をしてスタッフが喜んでくれているように見えていたが、実はそうじゃなかった、という日本っぽい話しであった。
で、上沼さん、こういう週刊誌の記事が出たのに、御馳走していたメンバーから反論がなかったことで、やっぱり自分がむりやり食べさせていたのかな、と心を痛めておられる。
そして、最後には「もう行かない」と悲しい言葉が…。
この記事、ぼくは切実によくわかることがあり、余計なお世話だと思うのだけど、一万キロ離れたパリで、思わず同情してしまった。



ぼくは作家生活30周年を迎えたところだが、編集長ならまだしも、担当編集者からごちそうになることはほぼない。
だいたいぼくが払う。偉そうに言うわけじゃないけど、ある編集者さんに「辻さんはたからない作家ですね」と酔った席で言われたことがあって、その言い方に驚いたことがある。
この人にだけは御馳走にはなるものか、と同時に思った。
どっちにしても、ぼくはたかったことはない。人に奢られるのが昔から嫌いで、だいたいぼくが出す。だいたい、と書いたけど、必ず出す。
理由はわからない。人の金で飲めないし、食えない。ぼくが御馳走になる時は、明らかなビジネスランチとか、だけだ。
でも、そうだと分かってる場合であろうと、御馳走になると分かったら、相当気ごころが知れてなければ行かない。
行くなら、あえて御馳走になるぞ、くらいの恩義を甘んじて受ける場合だけに限っている。
心地よく、「今日は御馳走になりました」と言える人に限る。そうじゃない場合、ぼくは全部自分で出してきた。だから、貧乏なんだと思う。でも、流儀だ。



「パパ、なんで、パパはいつもみんなの分を払うの?」
これは息子が幼い頃からずっと言い続けてきたことで、最近は、それがパパだからだよね、とからかってくる。
割り勘でいいのだけど、どうも、割り勘にしよう、とフランス人みたいに言えないのが弱点で、面倒なので、気が付くとカードを出している。
で、上沼さんに話が戻るけど、ぼくも同じ思いをしたことがある。
好きだから御馳走をするのだけど、その連中が陰でぼくの悪口を言ってたり、中にはぼくの物まねをしてる奴とか、(見てみたいものだ!)、バカにしていたり、というのを聞いたことがあった。
見る目がなかったということだろうけど、「もう行かない」とぼくもある日、思った。そして、実際、出歩かなくなった。



「パパ、すぐに人を信じるところがパパのいいところだけど、そうやっていつも裏切られて落ち込むのはいいところじゃないよね」
これは息子が、忘れもしない、11歳の時の発言だ。
自分だったら、焼き肉を御馳走になったら、一宿一飯の恩、を持って生きていく。上沼さんとは面識もないし、知らない方だけど、記事の行間から、こういうのが一番つらいんだよなぁ、と同じ気持ちになった。

それにしても、仮に百歩譲って、仕事の上で御馳走は辞退できなかったとしても、そこまで面倒見て貰ったら週刊誌に悪口を言ったらいけん。
一宿一飯の恩というのを忘れるような奴はあかん。
ぼくも奢っていた連中は好きな連中だったし、ちょっと年下で、兄貴、とか言って懐いていた連中だったから、思い出すと腹が立つ。見抜けなかった自分も悪い。いつも息子が正しい。



で、これがフランスだとなかなかこうはならない。
なぜなら、フランス人は上司や先輩に「御馳走するよ」と言われても平気で「いえ、今日は用事があるので」と言うし、断っても、文句は言われない。
この辺は楽な世界だな、と思う。だったらフランス人みたいに断れ、と言いたい。
ちなみに、フランス人は誘った上司も滅多に御馳走はしない。
割り勘が基本。「酒代はぼくが持つ」とか言われたら、みんな「すげー」となる。
それに自分で頼んだものは自分で食べるのがルールで、取り分けることは絶対しない。
なので、そもそも明朗会計が成り立つのだ。それでもぼくはここパリでもつい払ってしまう。
もう、これは自分の生き方なのだから、変更できないのだ。寂しいけど、御馳走してまで陰口言われたくないから、もう滅多に飲み歩かなくなった。
還暦にもなって、バカにされると怒りを通り越す。
恩義を忘れる日本であってほしくないけど、まあ、そういう時代だからしょうがないのかなぁ。
フランスの諺に面白いものがあるので、最後にこれを記しておく。

Les bons comptes font les bons amis.
≪よい勘定はよい友をつくる≫

滞仏日記「恩義を忘れる日本であってほしくない」 

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