JINSEI STORIES
滞仏日記「意気軒高な息子、いよいよ高校2年生へと踏み出す」 Posted on 2020/09/02 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、夜明け前、けたたましい目覚ましの音でたたき起こされてしまう。息子の部屋からだ。携帯を覗くと5時であった。間違えやがったな、と思ってもう一度寝たら、一時間後、また鳴った。6時であった。そして、7時にも鳴り、間違えではないことが分かった。キッチンに行くと、息子がワッフルを食べながらストレッチをやっていた。
「どったの? 気合入ってるね」
「新学期だからね、浮き浮きするんだ」
「って、今日、学校午後からでしょ?」
「うん、12時半から、でも、浮き浮きするんだもの」
「それはよかった。でも、朝5時と6時と7時に目覚まし鳴らす必要あんの?」
「パパ、初日だからね。早起きしたかった」
ということで、息子は昼食を食べたら学校へと出かけた。意気軒高という言葉がぴったりの登校風景であった。見送る父ちゃんも、なんだか、浮き浮きしてきた。
4時過ぎに息子が戻ってきた。どうだった? と訊くと、うん、よかったよ、と笑顔で言った。本当によかったのだ、ということが伝わった。へー、どんなふうによかったの?
「あのね、クラスが40人から20人になった。3クラスだったのが、4クラスに増えていた。感染対策でとなりの生徒とまでは手を伸ばしても届かない。ソーシャルディスタンスばっちりで、ちょうどいい人数だった」
へー、とぼくは言った。息子はリュックをおろし、マスクをゴミ箱に捨ててから、手を洗いに行った。ぼくもついて行った。水道を捻り、石鹸で手を洗っている。
「でね、担任が、ほら、知ってるでしょ、学校で一番怖い英語の先生」
「マジか、あの鬼」
とにかく、生徒たちに恐れられている女教師で、親であろうがちゃんとしていないと怒鳴る。集会などで、怒られている生徒や親を何度も目撃した。
「でも、彼女でよかった。厳しい人の方がぼくは伸びるからね。あの先生、言ってることは正しいし、教え方も悪くない。ユーモアも実はあるんだ。いい先生だと思う」
「よかったじゃん。怖いくらいが君にはちょうどいい。いいか、怒る人は生徒のことをちゃんと考えている人だ。怒らない先生は生徒のことなんてどうでもいい。そこは覚えておくといい。厳しくしてくれる先生のもとで学ぶ子は伸びる。よかったと思うよ」
「うん、なんだかね、光りがみえてきた。で、来年の2月からバカロレア(日本の強雨一次試験のようなもの)の試験が始まる。もうすぐだよ」
なかなか、浮き浮き感がおさまらなかった。その時、息子の携帯がなり、彼が慌てて電話に出た。「メートル・ミッシェル」と言っていた。誰だろう? 携帯から零れてくる声は男性の太い声であった。もっともフランス語がぼくには理解出来ない。息子は携帯で男性と話しながら自分の部屋へ戻って行った。メートルとはドイツ語のマイスター、英語のマスターのことである。なんのメートルだろう、とぼくは思わず首をひねってしまった。
小一時間執筆をして、買い物に行き、夕食を拵えていると、再び息子がキッチンにやってきた。そこで、さっきのメートルはどなた、と訊いた。
「弁護士の先生だよ。知り合いから紹介されたユダヤ人の弁護士のメートルでね、実は、いろいろと教わってる」
「何を?」
「将来のことを真剣に考えているから、弁護士になるには、どういう大学に進むべきか、とか、どういう仕事があるのか、とか、将来のことなんかを」
へー、と思った。高2になった途端にお兄ちゃんになったので、びっくりだった。ぼくが高2の時は野原を駆け回っていたし、仲間たちの下宿で屯していたし、メートルなんていなかった。で、その巨匠は何て言ったの?
「うん、まず、君は何か得意なことはあるか、と訊いてた。特技だよ」
「なんて答えたの?」
「特に威張れる特技はないけど、日本語なら喋れます、と言ったら、メートルがそれは素晴らしいと言い出した。ずっと最後まで、日本語は武器になるよ、と言い続けてたよ」
「へー、なんでかな」
「弁護士を目指す学生は多いし、その差はあまりないんだって。でも、日本語をネイティブに喋れると日本関連の国際的な仕事が出来るようになるし、企業や弁護士事務所が欲しがる。だから、武器になるって」
「日本に感謝しないと」
「してるよ、もちろん。それで、弁護士の勉強と同時に、日本語と日本文化を本格的に勉強したいんだよ。なんかアイデアない?」
「日本の大学に一年くらい留学するのがいいけど、でも、まずその前に漢字を勉強しないとな、喋れるってえばれるほどじゃないしな」
ぼくらは笑いあった。メートルはフランスの裁判制度のことや、実際の弁護士の仕事や法律のことを息子に教えたようで、彼はその世界に強い関心を示していた。十年後、そういう仕事に就いて誰かの弁護をしている息子の絵を想像してしまい、…鼻がこそばゆい。
「何がおかしいの?」
「いや、すまない。でも、お前、誰かの弁護とか無理でしょ? 君の性格じゃ、まず、裁判に勝てないよ」
「そうなんだよ」
と息子が苦笑いを浮かべながら、しおらしく同意した。なんか、こんなことで普通に悩める学生っていいな、と思った。
「メートルが教えてくれたんだけど、弁護士ってね、相手との闘いはそんなに苦じゃないんだって、むしろ、自分の客との闘いになるって」
「え? なんで?」
「人間って、自分が正しいってみんな思ってるんだって。だから、勝つつもりで裁判に挑むんだけど、明らかにエゴが強かったり、人間性の問題を抱えている依頼主もいて、そういう時、弁護士はメンタルをやられるらしい」
息子の口から「メンタルをやられる」という言葉が出てくるとは思わなかった。ぼくは笑えなくなった。裁判所でメンタルを痛めて立ち尽くしている息子を想像してしまい、急にため息が出てしまった。
「希望溢れる君に失礼だとは思うけど、むかないかもな」
「ああ、きっとね。ぼくは人に怒りを向けられない人間なんだって、友だちによく言われている。そういう人間が誰かの弁護をして、その人が間違えているかもしれないのを知りながら戦えるとは思わない、でもね」
息子が顔を上げて言った。ちょっと微笑んでいた。
「安心して、パパ、人生に簡単な仕事はないんだよ」
へー、とまたしても思った。その通り、と思わず相槌を打ってしまった。
「弁護士にもいろいろとあって、人の揉め事を仲裁する人もいれば、企業のために働く人もいるし、不動産や、知的権利の仕事もある。何か、ぼくにあった法律の仕事が必ずあるはずだから、これからじっくりと探すことにするよ」