JINSEI STORIES
滞仏日記「父が子供を真剣に叱る時、子は反れた道から戻るチャンスなのだ」 Posted on 2020/09/01 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、市場で新鮮なスズキを買ったのでネギ類と一緒に蒸して、ごま油と醤油で味付けをし、美味しそうに出来たのでご満悦でテーブルに並べていると息子がやって来て、
「今日はイヴァンがパリに戻ってきたのでご飯するから、ぼくの分、いらないよ」と驚くべきことを言った。カチーン。
「だったら早く言えよ。料理しているの、知ってたろ。作っちゃったじゃん。どうすんだよ、これ」
「でも、急に連絡あったから。二ヶ月会えなかったし、親友だから、会いたい。ごめんなさい」
謝られると弱い父ちゃんだった。
「まあ、いい。じゃあ、夜、食え」
「いや、夜はウイリアムと食べないとならない。アントワンヌとトマも来る」
カチーン。
「はぁ? お前、どこぞの社長さんか? 昼も夜も外食する高校生がいるか? それに、明日、学校で会えるじゃん」
「でも、クラスも違うし、ウイリアムは学校変っちゃったし、高校生だけど、付き合いは大事なんだよ」
「だいたい、食事代あんの? 何食べんの?」
「ある。マックで食べる。それに明日お小遣いの日だし。大丈夫だから、心配しないで」
ということで、息子は外出をし、ぼくは一人で食事することになった。つまり、同じものを夜、もう一度食べることになってしまったのだ。
夕方、仕事をしていたらピエールから、パリに戻ってきた、お茶しよう、とメールがあった。自称写真家だけど、ちょっと不思議な男で、実際、なんで生計を立てているのか、わからない。きっと、親が金持ちなのかもしれない。そもそも写真の機材を持って出かけるところなど一度も見たことがない。ライブの撮影やってよ、と頼んだら、カメラがない、と言っていた。出かけようとしていると、机の上に朝日新聞を見つけた。ピエールが載っているので渡そうと思って目立つところに置いておいたもの。ロックダウン中に書いた記事だった。編集者さんがどうしてもピエールの写真を使いたいというので、本人の許可をとった。とは言っても、ピエールの写真じゃなく、ピエールが写っている写真になる。※左側がピエールだ。
ピエールが娘二人とやってきた。お姉ちゃんがローザ(14)、妹がエリーズ(7)だ。ローザは物凄く不機嫌で、目を赤く腫らしている。エリーズはいつも可愛い。この街の人気者だ。ローザは両手を広げてピエールに食って掛かっている。ピエールは数年前に離婚をし、フランスの法律にのっとって、子供たちは毎週、両親の家を行ったり来たりしている。フランスの場合、離婚しても、親権は両方が持たないとならない。
「パパにそんな権利あるの? 何様なの? ママに言いつけてやるわよ。だから、ママにふられちゃうのよ。とにかく、このままじゃ、私はクラスメイトから仲間外れにされちゃう。パパ、お願い。携帯、新しいの買ってよ。あの中に、500枚もの私の大事な写真があったのに、マジ、どうしてくれるのよ」
14歳にしては小柄なローザ。でも、態度はマダム並みにでっかい。足を開いて、手をピエールの目の前につきだし、唇尖らせている。いや、マドモアゼル、迫力ある。
「よお、ツジー」
ピエールはローザを無視して、ぼくの横に座った。ぼくは彼が掲載されたページを開き、見せた。わおー、とピエールは大喜びした。ピエールの横にローザが座った。
「日本の新聞に載るだなんて、すげー。ツジー、ありがとう。一生、大事にする」
そう言うとピエールは下の子にまず見せた。それから、ローザにもそれを見せたのだが、ローザは次の瞬間、新聞を叩き落した。周囲の客たちがびっくりしていた。ローザの目は真っ赤だった。
「携帯、壊す権利ないでしょ? あれ、だいたい、あんたが買ったんじゃない。ママが買ったものよ。なんで、あんたに壊す権利あるの?」
「あんたじゃない、パパと言え!」
「ともかく、パパの携帯貸してよ、友だちに電話するから。今、しないと、仲間外れになる。パパが私の携帯を壊して、もう連絡出来ないって、言わないとならない」
目の前に座っていたアドリアンが、何をしたの? とピエールに聞いた。すると、エリーズが、
「お姉ちゃんが、あんたなんか親じゃない、と言ったら、パパがお姉ちゃんの携帯をとりあげて、壁に叩きつけて壊したの」
「それだけじゃないわよ。その携帯を力任せに折った。ボロボロになるまで壊した。ひどくないですか? パパ、とりあえず携帯を貸して!」
ピエールは仕方なく、自分の携帯をローザに渡した。ローザはそれで友だちに電話をしはじめる。なんで、そんなことをした? とぼくが訊くと、エリーズが、
「だって、お姉ちゃん、不良グループにいるから、悪い子だからよ」
と言った。どうも、素行が凄く悪いらしい。言葉の訊き方もひどいらしい。気に入らないことを言うと、あんたなんか、親じゃない、と叫ぶのだという。
「さすがに頭にきたからね、携帯を破壊してやった。で、元嫁に、暫くローザとは連絡が付かないよ、とメッセージ送っといた。ここで甘やかしちゃだめだ」
「でも、今時の子供は携帯がないと、ストレスになるし、仲間外れになるし、逆に不良に走らない?」
「いや、日本人はどういう育て方をするか分からないけど、このままほっとくと、あの子は社会で受け入れてもらえなくなる。ただの不良少女になる。正すのは今だ。親をバカにするような心を持って、まともな人間になるわけがない。ぼくはあの子をひっぱたいたわけじゃない。ぼくが買ってやった携帯を破壊しただけ」
「パパ、あれは、ママが買ったんだよ」
「どっちでもいいよ。それより、ローザの言葉遣いを正す」
「うん、お姉ちゃんはパパのことをバカにし過ぎるわ、言葉が汚い」
妹が言うのだから、間違いないのだろう。いつもはお坊ちゃん育ちのピエールだと思っていたが、意外としっかりしているのだ。
「でも、ピエール、このままじゃ、彼女は彼女の社会で生きれなくならないか?」
そこへローザが戻ってきた。
「ローザ、君は心を入れ替えるよな? パパに入れ替えると言いなさい。そしたら、新しい携帯を貰えるかもしれない」
「わかった。パパ、そうする」
「ダメだ。お前は嘘ばっかり。適当なことを言うな。暫く、携帯無しで生活しなさい」
ローザがテーブルを蹴飛ばし、立ち上がって叫び出した。
「パパ、酷いよ! 私だって生きてるし、友だちいなくなる。みんなに相手にされなくなる。生きていけなくなるじゃないよ!」
「自分が悪いんだろ。親を侮辱する子には何も与えない。それが我が家のルールだ」
そこからが大変だった。バーマンのロマンや、常連客のリコとか、コリーヌとか、ユセフとか、サラが次々やって来て、ローザの何がよくないかを説教し始めた。とくに、ロマンはすごかった。客をほったらかして、ローザに意見をした。もちろん、愛情たっぷりの熱血先生、まるで昔の日本の青春ドラマのようで、ぼくは噴き出してしまった。こんなフランス人がいたんだ、一緒だなぁ、日本と…。
「いいか、ローザ、ぼくは子供の頃、君よりもずっと悪い子だった。で、父親に家から放り出されたんだ。ぼくは家に入れてもらえないので、そこから一年間、友だちの家を転々として、もっと不良になったんだ。でも、パパは助けてくれなかった。ある日、ママが僕の前に現れて、家に連れ戻された。ぼくのママは空手の達人でね、ぼくはキッチンで投げ飛ばされ、殴られたんだ。パパにじゃなくて、ママに。冷蔵庫が凹んだくらい、凄かった。でも、その後、ぼくは更生したのさ。親の愛は凄いんだ、ローザ」
「へー、それで今のあんたがあるってわけね、ちっちぇー」
ピエールがその瞬間、テーブルを叩いた。その口の利き方はやめろ! すると、ピエールの近くにいたこの辺では狂犬と呼ばれているだれかれ見境なく噛み付く犬がピエールの足を噛んでしまった。飼い主のクリスティーヌが今度は駆け寄って来て、犬の頭を力任せにひっぱたいた。こら、お前はなんですぐ人間を噛むの? そのバーでこの犬に噛まれたことがないのはぼくだけだった。そう、ぼくは犬にだけは好かれるのだ。
「パパ、大丈夫?」
とエリーズが心配そうに言った。ユセフが面白がって、犬に噛まれたピエールの足を撮影した。会話に参加しないで静観していた哲学者のアドリアンが、痛そうな顔をしてみせた。
日本のお父さんはピエールのようなことをするだろうか? でも、ぼくは、目を腫らして父親に携帯を持たせてほしいと懇願する娘と、それを、ノン、と拒否し続けるパパと、お姉ちゃんが悪いという娘、何より、街中の人たちがローザの未来を心配して、かわるがわるやって来ては、この子の間違いを自分なりに指摘し正そうとする姿に、ちょっと感動を覚えていた。偽善者ぶって、ぼくだけがローザの味方になり、
「この子はもうすぐ心を入れ替えるから許してやれよ」
と言い続けていた。でも、自分の息子に甘い、ぼくからすると、ピエールの方がずっと父親らしかった。ぼくの父親もこういう人だった。悪いことをすると近所を裸足で走らされたし、お湯かけられたし、ほっぺた叩かれたこともあった。いや、げんこつもいっぱい貰った。でも、父親の厳しさがぼくを不良にさせなかったのも事実だ。自称写真家の普段何をしているかわからないピエールだけど、この日は立派な父親に見えた。さて、そろそろ、ぼくも息子の携帯をへし折ってやろうか。あれはぼくが買った携帯なのだから。ちっちぇー。