JINSEI STORIES
滞仏日記「9月1日から息子の自炊生活がはじまる。その訓練をやった」 Posted on 2020/08/26 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、昨日の日記で書いた通り、息子はこの9月から給食はとらず、昼食は自宅に戻って食べることになる。一緒に食べることもあるが、ぼくは息抜きも兼ねて昼間はふらふらカフェを梯子しながら、考えたり食べたりしたい。なので、息子は自炊をすることになった。それで昨日は米の研ぎ方を教えたのだが、今日は本人の希望により「パスタの作り方を」教えることになった。9月1日から新学期が始まる。あと、5,6日しか猶予がない。昼はパスタを作り、夜は冷凍食品などを使った簡単な料理を教えた。けれども、彼が料理人になれば、ぼくの生活上の重みが半減する。掃除機掛けや床拭きは家庭内バイトとしてすでにやっている。その上で食事を作る手間がなくなれば、ぼくは主夫業から解放されることになるのだ。やった、悪くない。それは想像さえしたことのない世界ではないか。
まず、昼はトマトソース缶、ツナ缶、オリーブなどを使って、トマトベースのランチパスタを作ることにした。ツナ缶をベーコンやハムにすることでバリエーションも出せる。ニンニクを潰して香りを油に移すような本格的料理は長続きしないに決まっているので、ニンニクパウダーを使うことにした。オイルをひき、弱火で熱し、パウダーをいれると香りが立ち上がる。そこにトマトソースの素やツナ缶やオリーブなどをぶち込んで、茹であがったパスタを和えれば完成。超簡単だ。料理を教えながら、ぼくらは人生談義に花を咲かせた。
「パパ、ぼくね、勉強のモチベーションが今、すごく高いんだ」
「ガールフレンド君が優等生だから、負けたくないだけだろ? そういうモチベーションじゃ、長続きせんな」
図星だったようで、珍しく、しゅん、となった。
「たしかに、勉強頑張って、彼女と肩を並べたい」
「ま、そういう友だちがいることはとってもいい。悪くない。自分が好きな人の世界に、自分も近づきたい、ってすごく大事なことだ。そうじゃないと人間は成長しない」
その子がどういう子か知らないけれど、頭のいい子らしい。その子が大学のことや将来の道について息子にアドバイスをしてくれるから、彼のモチベーションは確かに上がっている。父親の言うことは聞かないけど、その子の言うことは訊く。どういう友だちが回りにいるか、で子供の道は決まってくる。ま、悪くない。
息子が料理をしている間、ぼくは彼の横に立ち、腕組みして見守った。パスタはアルデンテがうまいので、適切な茹で時間や、パスタを鍋から移す時のコツなどを教えながら、人生についても語り合った。ま、悪くない。悪くない時間であった。
これが、息子が作ったパスタである。
ま、悪くなかった。缶詰を使うけど、ひと工夫でいくらでも美味しくなる。あるものを使って簡単に作る方法、その基礎をまず教え、それからひと手間加えてプロっぽくするいくつかの技を教えた。茹で時間、煮汁による乳化、パスタを和えるコツ、皿の盛り付けの方法などなど、つまり、世渡りと一緒だった。
夕食は、スーパーで冷凍餃子を買って、作らせた。作り方が箱に書いてあるので、特に指導はしなかった。ご飯を一合炊かせた。昨日、教えた通りにやり、ちゃんと出来た。よし、まずは合格点。悪くない。フランス製の怪しい冷凍の餃子だったが、なかなか美味しそうに出来た。うん、悪くない。
「パパ、こんなの料理っていうのかな?」
「言うよ。いいか、料理の料という漢字は、はかる、おしはかる、もとになるもの、つかうためのもの、たね、代金、などを意味する。料金というだろ、あの料と一緒だ。そして理は理科の理だけど、訓読みだと、ことわりと呼ぶ。これは物事の道筋、わけ、という意味になる。つまり、料理とは毎日をはかって、そのもとになるものの道筋であるということ。だから、生きる上での料理とは、何も豪華な美味しいものを指すのじゃなく、毎日をおしはかる道だ。ちょっとお前には難しいだろうけど、簡単に言うと、料理は一日に必要な食べるものを今日はこれだけ食べて明日からこうやって生きるか、みたいな、これからのことを生み出すための素になるもの、なんだ。わかったか」
息子は目が点になった。
「つまり、パパ、明日へつなぐための大事な栄養の補給みたいなことでいいの?」
「それでもいい」
「朝はこれを食べて、昼はこれ、夜はこれを食べて、今日が元気にやっていけるようなことの全部を指していると思っていいんだね?」
「それでもいい。これをこれだけ作って食べたらこうなるよ、ということだ」
「ああ、じゃあ、ぼくのこれも料理でいいんだ」
「いいんだよ。いいんだ。悪くない」
息子が笑顔になった。そして、ぼくらは一緒に作ったいろいろな料理を食堂のテーブルに並べて、一緒につついた。いつか、この子が自分の恋人や、あるいは子供たちに料理を作ってやる日のことを想像しながら…。いや、実に悪くない一日であった。