JINSEI STORIES
滞仏日記「寂しい、とその人は呟き、この世界のどこかで、愛を探して」 Posted on 2020/08/20 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、家の電話が鳴った。だいたい宣伝か間違い電話なのだけど、たまに息子の学校からだったりするから、出ないわけにもいかない。出る時は必ず日本語で出るようにしている。「もしもし、もしもし」ここでガちゃんと切る人間は、地獄に落ちる宣伝マン、と決めている。でも、ボンジュール、と来たので、ボンジュール、と返したら、「マダム・辻?」と訊かれた。ぼくの声はキーが高いのでだいたい間違えられる、訂正するのも面倒なので、「ウイ」とけだるい感じで戻した。
すると、男は要件をベラベラベラとまくし立てる。ここからは無料フランス語講座の始まり始まり。よくわかりません。ゆっくりと喋ってみて、と返す。ウイ、マダム、と言って、男は丁寧な言葉遣いでゆっくりと要件を説明しはじめる。やはり広告だ、と分かった。どちらの会社ですか、とマダム辻はおしとやかに告げる。するとムッシュは「スペインの家具メーカーのものです」と言った。5分ほど、どういう家具なのか彼が説明したり、或いはこちらはスペインの情報収集などする。「今、感染者は増えてるの?」「はい、マダム、ここはマドリッドですけど、増えています。うちのスタッフもみんなマスクをして営業活動頑張っています」「あら、立派。でも、無理しないで働いてね。残念だけど、家具は足の踏み場もないくらいにあるから、間に合っています」そして、最後に「ありがとう」と日本語で終わらせる。すると「ありがとうごぜーました。私、日本好きでーす」とスペイン人は大きな声で叫んだ。長くなると面倒だから、私もよ、バイバイ、と言って電話を切った。笑いを堪えながら振り返ると、息子が戸口に立っていた。
「誰?」
「陽気なスペイン人」
「パパ、知らない人間とぺらぺら喋ったらだめだよ」
「はいはいはい」
息子は昼食を摂ったら、スケボーの練習をしに出掛けた。なんにもすることがない。静かな午後である。コンサートも出来ないし、映画の撮影もなんにもなし。計画が立てられない。来月世界がどうなっているのか、予測がつかない。これじゃ、ストレスが溜まるわけだ。夢を持つことが出来ない。未来の計画をたてたくても、いつコロナが終わるか全くわからないので、何かを始めるにも、やれることには制限が付きまとう。若者たちに家でじっとしとけ、と言っても限界がある。映画館も、ライブハウスも、ナイトクラブも、どこもまともな営業が出来ていない。ぼくでさえ煮詰まっているのに、子供たちはこの長い戦いの中で、どうやってその若さを、憂さを晴らしていけばいいんだ。すると、再び電話が鳴った。
普段なら絶対出ないのだけど、暇なので、再び出た。サンドリンヌ、と男の声が言った。おっと、今度は間違い電話である。違いますよ、と途中まで言いかけたら、すすり泣く声がそれを遮ってきた。
年配の方みたいで、何か一方的に話し始めたので、ぼくはサンドリンヌじゃない、と言った。話しが途中で、一度、止まった。何かを考えるようなそぶりが見えた気がした。
「サンドリンヌ。私はもう疲れてしまった。本当に疲れてしまい、どうやってこれから生きてい行けばいいかわからない。頼む、戻ってこい」
「あの、待って。サンドリンヌじゃない。あなたは間違えている」
「いいや、そんなことはない。お前の声だ」
お爺さんは疑いもしない。もしかすると、アルツハイマーなのかもしれないな、と思った。どちらにしても、またぼくの声は女性と勘違いされてしまった。たしかにこちらの人はたばこを吸う人が多いので、女性でも年配の人の声は超ガサガサ、超ハスキーな人が多い。まさしく、ぼくみたいな声ばかり。
「サンドリンヌ。なんで、ここにいないんだ。早く戻って来てくれ。庭の草が大変なことになっているし、壁も黄ばんでいる」
これは困った。でも、とぼくは思った。この間違い電話は前にも一度、いや、二度ほどあった。それも深夜に。同じ人なのかもしれない。気にも留めないで切っていた。お爺さんはこの番号をうつし間違えたのだろう。ぼくは20年ずっと同じ番号を使っているので、絶対に、間違えたのだ。ぼくはお爺さんに、電話番号かけ間違えているか、写し間違えていますよ、と伝えた。調べ直した方がいい、と言った。でも、泣いている。泣き止まない。
ぼくの知り合いのアントワンヌのお母さんはいつも息子のことを探し回っている。そして、通りでぼくを見つけるとふらふらと泣きながら駆け寄って来て、ぼくの腕を掴んで、アントワンヌがいないのよ、テレビ欄の新聞を買ってきてくれと約束したのに、と必ず言う。フランスではテレビ欄だけの新聞が存在する。ぼくがアントワンヌに電話をし、お母さんが探しているよ、と教えてあげると、アントワンヌは毎回、舌打ちをする。彼は最近、アル中なのだ。最初は違ったのだけど、お母さんと同居するようになって、お酒の量が増えた。アントワンヌには兄が二人いるが、あいつらに押し付けられた、と怒っていた。お母さんは一日中、泣いている。そのなき声が耳奥で老人のそれと重なった。
「サンドリンヌ。お前がいない世界がなんて寂しいものか、お前に、分かるかい?」
ぼくは驚いた。なぜか、泣きそうになった。この人がいつかの自分かもしれない、と思ったからだ。世界中にこういうお爺さんやお婆さんがいて、コロナのせいで家から出れなくて、亡くなった片割れに向かって、電話をしているのじゃないか、と想像してしまったせいで…。
「サンドリンヌ、早く、帰って来ておくれ。サンドリンヌ」
言葉が出ない。
「…サンドリンヌ」
「ウイ」
と小さく告げてしまった。世界が静まり返った。数秒の静寂が続いた。
それからお爺さんに、あの、残念ですけど、サンドリンヌじゃないんです。周りに誰か家族の方がいますか? よければかわってください、と訊き返した。すると、鼻をすする音が何度か続いてから、必死で涙をこらえる声のあと、…不意にその通話は切れてしまった。