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滞仏日記「不意に息子がいなくなり、ぼくは一人で夕陽を見つめる」 Posted on 2020/08/13 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、朝、息子が起きてきて、やっぱりだめだ、と言った。
「何が?」
「いや、退屈なんだよね。景色は素晴らしいし、光りは綺麗だし、長閑だし、申し分ないんだけどね、息が詰まるんだ」
昨日はあまり寝れなかったのだ、と言う。ぼくは逆にぐっすり眠れている。パリでは熟睡ができない。でも、田舎ではノンストップで10時間くらい眠ることが出来る。
「それは、パパがもういい年齢だから、田舎の空気が身体に合うんだよ。でも、想像してみてよ、パパの若い頃、田舎に住みたいって思った? パソコンがないから、音楽制作も出来ないし、仲間たちとゲームをやることも出来ないし、携帯だけだと、ちょっとストレスになる」
まあ、分からないでもなかった。ぼくはパソコンを持って来たけど、息子はフィックスのバカでかいパソコンや音響機材を使っている。当然、それらは持ってくることが出来なかった。だから、部屋を覗くと、携帯を覗き込んで、ベッドでゴロゴロしている。森に行こうと言っても、虫がいるからヤダ、といい、海に行こうと言っても、クラゲがいるからヤダ、という。そして、昼食の準備をしていると、リュックを持ってきて、
「悪いけど、パリに戻るね」
と言った。
「マジか」

滞仏日記「不意に息子がいなくなり、ぼくは一人で夕陽を見つめる」



ぼくらは向かい合って、スパゲティを食べた。炊飯器を持ってこれなかったので、毎日、スパゲティを食べている。海沿いの市場で買ったサーモンで作ったクリームのスパゲティだ。レモンと玉ねぎとバターの織り成す酸味がありクリーミーな息子の大好物。息子は黙っている。でも、彼が不満を抱えているのがよくわかる。ここまで付き合ってくれただけで、もう十分だ。息が詰まるなら、パリに帰ればいい。



食後、仕方がないので、特急電車がとまる一番最寄りの駅、と言ってもそこから45分くらい離れた場所にある駅まで送ることになった。ま、寂しい話だけど、仕方がない。
「夜、友だちと会うことにしたんだよ。ちょっと会って話しをしたい」
助手席に座る息子が言った。
「ぼくは今、たくさん、悩んでるんだ。それを解決してくれる。わかるでしょ?」
「わかるよ。仲間は大事だ。その子はなんて?」
「その子はぼくよりも大人なんだ。いろいろと教えてもらえる」
「リスペクトしてるんだね」
「その人は親身になってくれる。ぼくの将来について誰よりもいいアドバイスをくれる」
「弁護士をすすめたのも、その子だね」
「うん、そうだよ。たくさん、毎日、話し合っている。ぼく一人では解決できないことを、その人はきちんと説明してくれるんだ」
余計なことは言わないことにした。この子はまだ子供だし、でも、ピュアだし、真面目だから、自分で苦しみながら決めていくしかない。頑固だから必要以上にこうしろとは言えない。タイミングをみて、アドバイスするしかない。でも、その子のおかげで、進むべき道が見えてきたなら、有難い。父親にはできないことだからだ。息子はその子ともっと話すべきだ、とぼくは思った。



駅についた。ロータリーの中ほどで代車のフランス車を止めた。
「ところで、食べ物とかどうすんの?」
「パパ、そんなこといちいち心配しないでいいよ、子供じゃないんだから、適当に食べるって。パスタ茹でてもいいし、お米も炊けるし、心配しないで。それよりも、パパは自分のことを考えてのんびりしたらいい。ぼくがいない方が食事のこととか気にしないで、仕事に集中出来るし、あと3日、ゆっくりしなよ」
バタンとドアの閉まる音がした。

リュックを担いで、駅へ消えた息子をたくましいと思うべきか、もういつまでも子供じゃないんだ、と悲しむべきか、複雑な気持ちになった。でも、ともかく、彼はあっさりパリへと帰ってしまい、ぼくは一人になった。きっと、その優しさから、ここまで付き合ってくれたのだろうが、実際は我慢をしていたということである。一人になることは、望んでいたことだけど、ある意味、寂しいものだ。でも、みんな、それぞれの人生がある。ぼくは息子が年上のガールフレンドにアドバイスを受けながら、頭が上がらないで、ただ、ひたすら尊敬している感じを想像して、思わず苦笑してしまった。若いなぁ、と思わず声が出てしまった。

宿に戻り、夕刻、沈む夕陽を追いかけながら浜辺を歩いていると、携帯に息子からショートメッセージが届いた。世界がキラキラしていた。
「パリに着いたよ。思い出したんだ、電車の中で。ほら、パパの歌にあったじゃない。疲れ切ったオヤジたちが築いた時代を渡されたって、やつ。多分、ぼくはこのレースのアンカーマンなんだよ」

滞仏日記「不意に息子がいなくなり、ぼくは一人で夕陽を見つめる」

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