JINSEI STORIES
滞仏日記「コロナ禍から遠く離れて。息子と二人で出発」 Posted on 2020/08/09 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、GOTOトラベルキャンペーンのようなものはフランスにはないが、今は真夏なので、バカンス好きなフランス人はみんな家族、或いは恋人とバカンスに出ている。新型コロナのせいで3月から5月にかけて全土でロックダウンをした国とは思えないほどに、人々は移動している。もっともEU圏内だけだし、今年はフランス国内でのバカンスを選ぶ人がほとんどだ。日本はお盆を前に帰省の自粛などが話題になっているが、この差は何だろう。
今朝、カフェで文学者の友人とお茶をしたが、「日本はどうだ?」と訊かれたので、日本の死者数を伝えたら、目を見開き、瞠目していた。少ない、という意味での驚きである。3万人以上をコロナで亡くした国からすると日本の死者数はあまりにも少ない。でも、日仏を比較すると、日本の方々の方が若干ピリピリしている気がする。双方のニュースを比較しても伝わってくる。どちらがいいのか、判断は難しいけれど、フランスはロックダウンを一度経験したことで、第二波を迎え撃つ心の準備が出来ているような印象を覚える。これはダメ、これはOK、というバカンスに関する行政指導にぶれがないのも、安心材料かもしれない。
結局、ぼくらは山ではなく、またしても海を選ぶことになる。息子が見つけた北フランスの海沿いの民宿(一泊、100€。約12000円)が、かわいらしかったので、そこを借りた。しかし、都会じゃなければ、どこでもよかった。猛暑のパリから脱出し、自分を取り戻すためにバカンスはある。もし、感染拡大が、あるレベルを超えた場合、フランス政府は再びロックダウンや何某かの移動制限を行うはずで、そうなったら、従えばいい。そういう柔軟な感覚で挑んでいかないと身が持たない。心が持たない。この感染症パンデミックは長期戦なので、これまでの日常のいいところは残して、改めるところとの折り合いをつけていくことが大事だ、とぼくは思っている。
人の少ない避暑地に行くので、パリにいるよりは安全だし、田舎の人たちも観光(経済)を回しながら、パリジャンを恐れながらも、ぼくが見ている限り、上手に距離をとり、防御も徹底している。出かける側のパリジャンもかなり用心をしているし、その辺は見事だな、と思う。東京の人は移動しないように自粛を求められ、観光がしにくい雰囲気が出来ているのだろうか? 今年のお盆は帰省の自粛もある程度は仕方がないかもしれないが、この感染症は下手をすると何十年と続くことになるので、ずっと自粛というのは無理だ。短距離走のような生活をしていると精神がやられてしまう。かなりゆるいマラソンスタイルに変え、しかも、たまにずる休みをするくらいの図々しさも必要になる。安全な場所に籠るバカンスという選択肢もある。3密を避ければいいだけのことだ。ぼくと息子はそういう旅に出た。
ぼくらは代車のフランス車に荷物を積んだ。小型車だったけど、ぼくと息子が乗るだけなので、十分だった。ギターとかパソコンとかスケボーとかを積んだ。
「パパ、ぼくらがバカンスに出ている間にリースの車が直ったら、どうするの?」
「どうするって?」
「この代車返さないとならないでしょ?」
「だって、バカンスに出てまで、壊れた車のせいで振り回される必要はないでしょ? もう、裁判はやめたんだし、この代車のお金もパパが払うんだから、ほっとけばいいんじゃない?」
「そうだね。でも、酷い話しだね」
「お前、今、言うか!」
ぼくらは笑った。でも、ぼくは吹っ切れていた。出発しようかと車のエンジンをかけた時に携帯がなった。みるとドイツ車の顧客サービスからであった。
「はい、辻です」
「ムッシュ、車が直りました。問題はバッテリーのショートだったみたいです。バッテリーを換えて、さらに電気系統を直しましたから、もう大丈夫。申し訳ありませんでした」
ぼくは黙っていた。助手席の息子がぼくをじっと見ている。たったそれだけのことだったのか、と半ば呆れながら、ぼくは苦笑してしまった。
「車は見つかったんですね」
「はい、それがパリから20キロくらい離れた工場にありました。誰かが間違えたみたいです。これから取りに行かれますか?」
「ぼくが?」
「ええ。そういうルールです」
「あの、ぼくらは今、バカンス中なんですよ。すみませんが、この代車を返すのも、車を取りに行くのも、再来週以降になります。でも、構いませんよ。代車代金もぼくがカード切ってますし、そちらは車を直したのだから、そこに放置しておいてください。問題は解決ということでしょう。パリに戻ったら、その工場にとりに行きます。ありがとう」
そう言い残してぼくは電話を切った。横で息子が、それでいいよ。揉める必要はない、と言った。
「じゃあ、出発するか?」
「うん」
「ところでどんな民宿なの?」
「小さな家で、小さな窓が一つあって、遠くに海が見える」
「いいね。お前は何して過ごすの?」
「二つ目的がある。エミール・ゾラのジュルミナルを読破すること。それからスケボーをマスターすること。海沿いの遊歩道でスケ―タ―が大勢滑ってるんだ」
「いいね」
「いいね、だらけだ」
ぼくらはイギリス海峡を目指した。そして、パリから離れて2時間、ぼくらは小高い丘の上の小さな民宿に到着をした。きれいな空気だった。最高だった。ぼくはさっそく、ギターを弾いた。息子を信じてよかった。人生は勝ち負けじゃない。そうだ、コロナ禍から遠く離れて…。