JINSEI STORIES
滞仏日記「年金を貰うことになった、そんな年ごろの自分に驚いた」 Posted on 2020/08/08 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、そこで、今朝、息子君がパソコンを持ってきて、彼がセレクトした、予算的にもそれほど高くない、今からでも予約できるフランス田舎の家(民泊)リストを見せてもらった。よく調べたなぁ、と驚くほど、フランス各地の田舎の家情報であった。
「パパは、田舎に住みたいってつねづね言ってるじゃない。そのためにはこういうところに泊って、その土地があうかどうかを調べながら、探すのもいいんじゃない?」
南仏、プロヴァンス、スイス国境、アルプス、アルザス、スペインとの国境、フランスの京都と呼ばれるボルドー地方、ブルターニュ地方、などなど、風光明媚な田舎の民宿ばかりであった。
「パパは将来、どういうところで暮らしたいのさ」
「そうだね、南仏とかアルプスまで行っちゃうとパリに戻るのが大変になるから、パリから一時間くらいの村とかがいいけど」
「村? それは無理でしょ」
「なんで?」
「パパは田舎の小さな村では、暮らせないでしょ」
「暮らせるよ。人里離れた山奥とか好きだ」
「パパは寂しがり屋だから、三日も持たないって。それなりに人がいないと無理だと思う」
するどい、と思った。こいつだてに、16年も一緒に生きてない。
人の人生というものは実に奇妙なもので、どんなに人生設計とか計画を立ててもその通りに生きられて、予定通りの最期を迎えられる人間なんかまずいない。どんなに計画的であろうと、最後は、行き当たりばったりになってしまう。
「パリでいいんじゃないの?」
「いや、都会は疲れた。一生テレワークで生きていくしかない身だから、土地を持ちたいと思った。どこでもいいんだけど、お前を残して日本に帰るわけにもいかないし。お前が家族と暮らすパリに、何かあれば、すぐに戻れる場所がいい。そうだ、パパはこれから画家を目指すんだ」
「出た。またかよ。もういいよ、好きにして」
息子は笑った。ぼくは笑わなかった。まあ、いい。
「住処の裏に、小さなアトリエがあって、自分の創作した世界に囲まれて生きたい。ジャン・コクトーみたいな感じ」
「じゃあ、バルビゾンとか?」
「ああ、いいね、あそこなら一時間で行ける」
「ちょっと待って」
息子がパソコンで、バルビゾン周辺の物件を検索した。そして、一軒のメゾン(家)を見つけた。可愛い庭があり、古い母屋と横に馬小屋だった倉庫がついている。建物はボロボロで工事が必要だけど、その分、安い。写真を見ると、周囲を森に囲まれている。
「この馬小屋を民宿に改造して、小さなホテルでもやろうかな」
「出た。画家を目指すんじゃななかったの?」
「一組だけ、泊めて、夜はぼくがご飯を出す」
「やめた方がいい」
「なんで?」
「パパ、すぐに人と揉めるし、だいたい、お金の計算が出来ないし、そもそも、一人では無理だから、人を雇って大変になって、最後は爆発して、パリに戻るとか言うに決まってる」
するどい、さすが、だてに16年も一緒に生きてない、と思った。
「ただ、パリを脱出したい。余生というものがあるなら、残りの人生は人に振り回されず、孤独でも自分に偽りのない人生を生きてみたい」
「いいんじゃない」
「最近、フランス政府から年金のお知らせが届いた」
「年金? マジ?」
「あと、5年したら、年金を貰うことが出来るんだ」
「そんな年齢になったの? 信じられない。世も末だね」
ぼくらは大声で笑いあった。たいした額じゃないけど、20年、納税をしてきたので、ちょっと頂けることが決まったようで、思わずひっくり返りそうになった。でも、これで最低限の生活は維持できる。机の引き出しからレターを取り出し息子に読ませた。
「ほんとだ、65歳から支給されるみたいだね。年金生活者になるんだ。パパには、そういう人生が用意されていたってことか。似合わないねー」
「お前が、大人になるわけだよ」
笑う息子を見ながら、急に老けた気持ちになった。でも、ぼくの仕事に終わりはない。死ぬまで、原稿用紙を埋めていく。死ぬまでギターの弦を交換していくのだ。
「さあ、パパ、どこへ行く? どこでもいいよ。まだ夏休みは長いんだから、そこでのんびりしようよ」
こうやって、将来について、息子と語り合っていると、なぜか、自分がところてんのようになって、ぐにゅーっと押し出されていくような気分になる。正直、本当にフランスの田舎で生きていけるのかわからない。決断まで、あと、2、3年、或いはもっとかかると思う。いくつかのプロジェクトや創作案件を抱えているので、これらをこなしながら、決めていくことになるのだろう。でも、パリを脱出する。これが今のぼくのささやかな目標なのである。その時が、息子とのお別れの時かもしれない。なので、今は喧々諤々しながらも、二人で生きていきたい。
それにしても、年金だなんて、、、驚いた。