JINSEI STORIES
滞仏日記「ぼくが息子のために出来ること」 Posted on 2020/08/05 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、息子は今日も文学少女の先輩と出かけた。父親が車の問題で裁判をするかというくらい頭を抱えているというのに、暢気なものである。でも、あの子はあの子なので、せっかくの夏休み、最大限に楽しい時間を持ってもらいたい。でも、彼が家を出る前に、ぼくは玄関先で息子を掴まえ、
「遊んでばかりいないで、自力で生きていくことを考えろよ」
と言った。
なんでこんなことを言ったのか、というと、夢を見たのだ。自分が死ぬ夢だった。
まだ、家族が三人だった頃、ぼくは貧血でよく倒れていた。倒れるという言葉じゃ足りないくらいのぶっ倒れようで、間違いなく不安を家族に与えていたと思う。息子と二人切りになって、なんとかしなきゃ、と強く思うようになった。健康が家族を守る一番大事なことだと自分にいい聞かせ、走ったり、免疫力を付けるなどして、頑張っているせいか、倒れる頻度は前よりぐんと減った。でも、少女漫画みたいな話しだけど、フラッと眩暈が起きて意識がなくなることもある。その予兆のようなものが分かってきたので、来た、と思うと、先に手をつくように心がけているが、こればっかりはその時にならないと分からない。
時々、立てなくなることもあって、突発性難聴と診断されたこともあった。こちらはぶっ倒れるほど恐ろしくはないけれど、手を突かないと平衡感覚が取れなくなり、起きたいのに、起き上がれないこともある。プレドニンを飲むと、治ることも分かった。お医者に行って、何度か精密検査をするのだけど、特にどこかが悪いという部分は出てこない。霊的な病かもしれない、とは思っている。不意に40度を超える熱が出て、不意に平熱に戻ることもあるので、そういう時、また悪霊にとりつかれたな、と笑っている。なので、昔から、不意に死ぬかもしれない、と思うことも多い。作家の江國香織さんに昔、「辻さんの小説って、必ず死について書かれているね」と言われたことがあった。そういうことを意識したわけじゃないのだけど、気が付くとそこを突き止めようとしている。自分の体がふと止まる予感のようなものをずっと抱えて生きていた。すっと、心臓を掴まれるように。
誰かが昨日のツイートの返信で「辻さんは2021年2月3日まで天中殺です」と書いてくれていたけど、ぼくは40歳以降ずっと天中殺と厄年の繰り返しだった気がする。有名な占いの人と、有名な占星術の人が2014年になる前に「辻仁成は最高の一年になる」と予言されていて、やったぁ、と吹聴しまくっていたら、離婚が待ち受けていた。あれ以降、占いとか信じなくなったけど、天中殺だからといっても幸せな瞬間はあるんだけどね…。もちろん、今回の車の問題などは起きるけど、息子も生意気だけど、車問題を解決しようとしてくれる街の隣人たちに人間のすばらしさを教わったりもするわけで、息子のことは心配だけど彼のことをずっと見守っているし、たまに幸せをあんな子でも与えてくれるので、へっちゃらなのだ。幸せって、泥の沼に咲く、名もなき小さな白い花だったりするんだよね。
大変な世の中だけど、考えてみてほしい、みんなもコロナで大変なのだ。ここは励まし合って乗り切っていけばいい。ぼくが天中殺だから、コロナを招いたわけじゃない。人類がみんな厄年だからコロナが流行ってるわけじゃない。小さな感動を拾っては、有難い、有難い、とぼくは拝んで毎日を生きるよう、心掛けている。
しかし、身体がどこか不安定なぼくだし、とくにシングルファザーだから、自分に何かがあったら、あいつはどうやってこれから生きていくんだ、と思うと、不安になる。息子のことを真剣に愛してくれる恋人が早く出来てほしいと願う。彼はハンサムだし、アジア人でモテるから、こそ、ちゃらちゃらするな、と言い聞かせている。
「パパ、分かってるよ。ぼくは家族が欲しいんだ。家族を作るのがずっと夢なんだ」
こういうことを言ったこともあった。彼が求めているものは家族なんだと思う。アンナの家が大家族で、彼はそこで二週間過ごしてから、またちょっと変わった。今、仲良しの文学少女先輩は最近の息子の一番の理解者だそうだが、そういう友だちと触れ合う中で、これから先の自分の人生を少しでも早く見つけられたらいいのにね。もしも、ぼくがアスファルトの路上でぶっ倒れたら、もう起き上がれないかもしれないからだ。そういうことを考えると、死ぬ夢を見る。これは、生きたい、というぼくの渇望の現れかもしれない。