JINSEI STORIES
滞仏日記「様々な人種、民族、階級の異なる人々がごっちゃ混ぜのパリ」 Posted on 2020/08/02 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、ぼくが暮らすカルチエ(地区)はパリらしい歴史のある街で、カフェに勤めるサラ曰く、「ここはガリア人のカルチエなのよ」ということになる。ガリア人とはフランス人の祖先みたいな、原始フランス人のことを指す、つまり、野蛮ということだ。
昨晩は行きつけのカフェで差別主義者が黒人の女性と口論になりワインをその人にぶちまけて、周りの客らと乱闘騒ぎになったのだという。その差別主義者はうちの隣の建物のオーナー(実は大金持ち)なのだけど、いつもボロボロの恰好をして白髪を生やしているので、ホームレスにしか見えない。サラが赤く染まったテーブルを拭きながら、アンチ差別主義者に袋叩きになっていたけど、でも、彼の主義が変わることはないわ、と嘆いていた。
サラはベトナム系のアラブ人の恋人との子供をお腹に宿している、と打ち明けた。3ヶ月なのだそうだ。ここ最近のフランスは見事に混ざっていて、それが実に今のフランスを現している。ぼくの車問題の解決に奔走してくれたモロッコ人のエミール然り、マルティニックのジャン・フランソワや、カリビアンのジョゼなど、様々な宗教を持った人々、様々な民族の血が混ざった人々、様々な階級の人々、がこのカルチエでごった返していた。なぜか、日本人は減った。アジア系だと中国人とベトナム人が多い。
アジア人とは米文化を介してつながりが出来る。今日は中国系フランス人のパトリック(香港人のシンウエン)が13区のチャイナタウンを案内してやると言い出したので、彼らの買い物に参加させて貰った。パトリックの奥さんと三人でプラス・ド・イタリーにほど近い中華街の「タンフレール」という巨大スーパーマーケットに買い物に行ったのである。
パリには中華街が二つある。拙著「父」の舞台はもう一つの中華街ベルビルだ。主人公、ジュールの恋人は中華系のフランス人だった。ベルビルはアラブ系やアフリカ系も混在しているが、13区の中華街は中国人が束ねた本物の中華系の街である。日本人と韓国人はオペラ地区に集結をしたが、13区の中華街はとにかく規模が違う。
15年ほど前はチャイニーズギャングが仕切っていたので13区界隈はちょっと怖かったけれど、パトリックに連れていってもらったタンフレールは見違えるように安全になっていた。ここでは、ありとあらゆる食材が売られている。ゴーヤ、空心菜、蓮根、長芋、シイタケ、エノキダケ、ミニ大根、ドラゴンフルーツ、ドリアン、などなど。もちろん、初めて見る野菜も山ほどあった。ここで手に入らないものはない。だから、パリ中のアジア・中東系のレストラン関係者が食材を調達に来ている。イケアがそのままスーパーになった規模感である。
パトリックはぼくに、中国人がどうやってパリで勢力をつけていったのか、を教えてくれた。日本人と大きく違うのは、中国人は家族でフランスに渡って来て、それが横に繋がって組織を作り、拡大し濃くなっていった。パリにいる日本人は組織を嫌うので、一人で入って来て、多分、フランス人と結婚し同化して薄まっていく。中国の人はそのままよその国に自分たちの地区を作って、仲間や家族を呼び寄せる。パトリックの子供たち、フランス生まれの中国人たちは親の世代のような縛りを持たず、新しいジェネレーションを形成している。パトリックの娘のリリアンなどはうちの息子と同じように全く新しいジェネレーションの中に分類される。小説「父」の主人公はそういう環境の中で恋をするのだ。
昨日、ワイン屋のエルベのソワレ(夜会)に招待されたので顔を出した。店の裏の広い中庭を使った、常連客のためのパーティであった。顔を出すと、同じカルチエなのに、100%ブルジョワが集まる白人パーティだった。パリでこの手のブルジョアたちと出会える場所は限られてきた。そういう意味で今やパリでは白人の方がマイノリティかもしれない。エルベのパーティに集まったフランス人たちは昔ながらの伝統を守った人たちで、攻撃的ではないが、やや排他的かもしれない。フランスはアメリカとは違い、露骨な人種区分を嫌がるけど、全く差別がないというわけではない。差別主義者がワインを黒人女性にぶちまけるという野蛮も起こり得る世界なのである。
ぼくは、ガリア人のようなフランス人の中に混ざる時、様々な民族が混じった今風のパリジャン文化の中にいる時、そして、ブルジョアのフランス人と向き合う時、それぞれの考え方を否定せず、尊重して参加するようにしているし、間口を狭めないような付き合い方を心掛けてきた。つまり、ぼくなりの知見を広げるように努めてきたつもりである。エルベのパーティで知り合ったマリアンヌ婦人は気品のある口調で、
「私は日本人がフランス人に一番影響を与えた外国人だと思っているのです。あなたたちは弁えているし、図々しくないし、モラルがある上に、非常に優れた文化意識を持っているのですから」
と言って、友好を示してきた。
ぼくはシャンパングラスをマダムと重ねながら、恐縮です、と笑顔を振りまいておいた。年配の人だったので、余計な意見を言う必要もないだろう。
でも、そこを出て、野蛮なガリア人のバーに行くと、ハンチングを後ろに回し、先鋭的な若い芸術家たちと安ワインをガブ飲みしながら、資本主義、民主主義の終わりについて議論を熱く戦わせることになるのだった。人によって態度を変えているのではない。その人が生きてきた世界を否定して自分が優越に浸るのが苦手なだけだ。
夜、ぼくはパトリックを韓国レストランに連れて行った。そこで今日、初めて出会ったまだ相当に若い給仕のスー・ヨンと日韓関係について話しをした。彼はぼくの本を読んだことがあった。ぼくは韓国の国民的作家のゴン・ジーヨンと新聞連載をした時の苦労話を披露した。あれは15年ほど前のことだった。その話しを中国人のパトリックがじっと聞いていた。ぼくはパトリックを振り返って、ぼくにとってこの世界はあまりに狭いのだ、と言ったら、彼は、君みたいな面白い日本人にあったことがないよ、と言って笑っていた。