JINSEI STORIES

滞仏日記「フランスで、フランス人と渡り合う、正しい戦い方」 Posted on 2020/07/31 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、今、こうして、パソコンの前にいるぼくは、今日ぼくの身に降りかかったことをどんな風にここに書けばいいのか、ちょっとわからずにいる。ぼくは正直もう、この件は忘れよう、と思っていた。世界的な自動車メーカーに文句を言っても、相手にされるわけもなく、そもそも忙しいので面倒くさいことを引きずりたくないし、と思っていた。息子に昼食を与え、自分は食欲がないので、むしゃくしゃする気持ちを鎮めるために知り合いのカフェにビールを飲むのために顔を出すと、常連たちがテラス席に屯していた。
「よお、ツジ、こっち来なよ」
とぼくを誘ってくれたのは夏なのにネクタイをしめたジャン・ジャックだった。この連中はぼくが裏でこっそり背広組と呼ぶ、近くの省庁に勤務する男たちで、だいたい40代半ばの元気なおじさんたちである。どうした、浮かない顔をして、とトマが言った。そこで、ぼくは昨日の日記に詳しく記した車のトラブルについて、気を紛らわすため、説明をすることになる。(昨日の日記を参照されたし)。
すると、エミール(仮)が、それは普通じゃないね、と言った。
「ツジは日本人だし、残念ながら君のフランス語ではプロには勝てない。ちゃんとした専門用語を使い、この国の法律にのっとって、専門家がきちんと抗議すれば、一発で解決することんだけどね。だから、それはぼくがやる」
 不意に、エミールがそう言いだしたので、耳を疑った。

滞仏日記「フランスで、フランス人と渡り合う、正しい戦い方」



「君がやる? どういうこと?」
「俺の親友に車関係に強い人間がいるんだ。そいつを通して、そのディーラーに話しを通す」
「通す? いや、いいよ。そんな面倒くさいことしないでくれ」
「そうじゃない、ツジ。この国では、権利は一つ一つ勝ち取っていくしかない。一つ躓いたら、次々、ダメになる国でもある。逆に、この国は自分を主張したやつが必ず、日の目を見る。政治だって、みんなデモに参加するのは、自分の権利を勝ち取るため。泣かない赤ん坊は誰もお腹がすいてることに気づかない。わかるか?」
「・・・・」
「泣き寝入りをする人間は逆を言うとこの国では生きてはいけない。俺は、ツジが好きだから、友だちと思ってるから、そんなことで負けて、いじけて日本に戻ってほしくない。ごらんの通り、俺もオリジナルはフランス人じゃない。今はこの国の国籍を取得して、誰よりもフランス人になった。政府の仕事をしている。でも、オリジナルはモロッコだ。フランスはモロッコの宗主国だった。でも、引け目を感じたことはない。そして、フランスの懐の深いところは、主張し続けた奴、ネゴシエーションし続けた奴には何らかのご褒美が巡ってくるってことだ。居場所が与えられる。諦めたら、そこで終わりの国でもある。お前にはもっとフランスで頑張ってもらいたい。フランスで這い上がってほしい。日本の侍の底力を見せつけてやってほしい」
エミールは、ぼくの胸に指を突き付け、契約書のコピーを見せてくれ、と言った。
ぼくは、毎日、そのメーカーとやりとりをしているので、携帯に契約書を写メにとって保管していた。それをエミールの携帯に転送した。

「しかし、君や君の友だちの専門家まで巻きこんでやることじゃない。新車と言っても小型車だし、リースだ。面倒臭いことだけど、事故にあったと思って諦める」
すると、エミールは顔を左右に強く降り、周りにいる連中の同意を求めるような感じで、侍らしくない意見だ、と言った。
「ツジ、大丈夫だ。お前は俺たちの仲間だから、心配するな。俺が解決してみせる」
そういうとエミールは電話でその友人の車関係の専門家と話しはじめたのである。ジャンジャックが、心配するな、と言った。
「エミールは顔が広いんだ」

ぼくは仕事があったし、彼らも仕事をするために一旦、それぞれのオフィスに戻っていった。ぼくはパソコンに向かい、依頼されたエッセイの執筆にとりかかっていた。すると、一時間後、エミールから電話がかかってきた。
「ジルがトミーと話しをした。圧力をかけたから、今から、乗り込むぞ、着替えてさっきのカフェに来い」
「ジルって? トミーとは誰だ? 乗り込む? ど、どこに…」
「ジルは法律の専門家で、トミーは君が小型車をリースしている販売店の責任者だよ。ぐずぐずしないでくれ、ジルも来てくれることになった」
「は? いいよ、そんなの。会ったこともない人まで巻き込みたくない。販売店までどうやって行くんだ? 車もないし」
「ジルの車で行く。とにかく、つべこべ言わないで早く来い」
ということで、着替えて慌てて昼間のカフェに行くと、エミールが待っていた。彼の横に、ジルという背の高い男性がいた。もちろん、仮名である。



このジルという男性は、あとで次第にわかってくることだが、どうやら弁護士のようであった。エミールが務める省庁は、この自動車メーカーの名前をここに記せない以上に大きな大蔵省みたいな省庁で、ジルはそこで仕事をしている車好きな法律の専門家でもあった。あまりに信じられない展開だったので、ぼくは恐縮し、困惑していた。持つべきものは友達とは言うけど、ここまでやってもらっていいのか、正直、悩んだ。でも、彼らはどこか九州人のような、俺に任せんか、というノリがあって、自分の親戚とかにそっくりな熱血なおじがいることを思い出した。エミールを九州男児だと思えば、なんとなく、このおせっかいも頷くことが出来た。困った人間をほっとけないのだ。ぼくはジルの車の後部座席で思わず苦笑してしまった。
 

滞仏日記「フランスで、フランス人と渡り合う、正しい戦い方」

販売店につくと、エミールとジルが受付に行き、要件を伝えたが、トミーはいない、と受付の男性は言った。いや、会う約束になっているので、とエミールは引かない。ぼくはこの時、逃げ出したかった。平然とした顔をしていたが、内心はハラハラドキドキであった。ぼくがおやすみツイートをしたのは、このタイミングであった。ここからが長かった。別の責任者と話をしたいとエミールとジルは専門用語を繰り出して迫り続けたのである。
「ちょっと、待って。トミーは今、近くで商談しているので、一度電話してみるから」
そう言って受付の男性が消えた。ぼくらは新車が居並ぶホールで待つことになった。エミールがトイレに行ってる間に、ジルはぼくにこう言ったのだ。
「フランスってね、面白い国で、権利を主張し、みんな自分で自分の未来や幸福を勝ち取るんだ。コロナ禍の始まりの時だって、政府にきちんと主張をし、その主張で政治が動いた。黄色いベスト運動もしかり。自分たちの年金は黙ってたって、上がらないからね。ぼくらは政府寄りの仕事をしているけど、国民でもあるわけだから、権利を主張する市民を否定することはない。そこがとっても、フランス的なんだよ。戦う時はとことん闘う。その結果、フランス人の暮らしは向上していく。実は、エミールはアポなんかとっていないんだよ」
「え? マジですか?」

滞仏日記「フランスで、フランス人と渡り合う、正しい戦い方」



「ああ。でも、嘘はついてない。彼の一流のストラテジーだよ。ただ、行くからね、と言って電話を切った。トミーは逃げてるわけじゃない。でも、彼は会いたくないんだ。自分たちに非があるのを知っている。どうやって誤魔化していくのかを考えてる。エミールはね、敵の懐に入る方が早いと思って、こうやって押しかけた。安心していいよ。ぼくも昼過ぎにトミーとは長電話をしている。彼のやり方もだいたい把握しているから、少しはいい方に向かうと思う」
エミールが戻ってきた。
「さすがに、世界に名だたる自動車メーカーだね。トイレもぴっかぴか、綺麗だったよ」
ぼくらは笑った。すると、トミーのアシスタントがやって来て、
「彼は戻って来ませんが、今日の夕方、うちの修理部門のレッカー車をそちらに派遣することになりました。すぐに修理をさせますので、今日のところはお引き取りください」
ぼくは心の中でガッツポーズを決めていた。エミールがチラッと、ぼくを振り返り、口元に笑みを浮かべながら、
「それはよかった。じゃあ、あとでトミーからぼくに直接電話をさせてもらいますか? 辻の代理人であるぼくに」
と言い、エミールはトミーのアシスタントに自分の名刺を手渡したのだ。  
「それが礼儀というものでしょう?」

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