JINSEI STORIES
リサイクル日記「フランスの幽霊について」 Posted on 2022/10/10 辻 仁成 作家 パリ
この日記は、2020年、前のアパルトマンにいた頃に経験した、霊的な物語である。けっして怖い話ではありませんが、幽霊の話などが嫌いな方はご注意ください。けっして幽霊は怖い存在でもありませんが・・・。
某月某日、上の階の人が1月間半、スペインにバカンス旅行に出るというので、鍵を預かることになってから、2週間が過ぎる。120年前の建物なので、壁も天井も薄く、人が歩くとギシギシ、ミシミシ、と鳴る。
うちもそうなので、うちの下の階の人はこのうるさい音を毎日聞いてることになるのか、と思いながらいつも上の階の人の音を聞きながら寝入っていた。これが結構、遅くまで寝ない家族で、一晩中、ギシギシなっていた。でも、家族四人がスペインに出かけてから静かになると思っていたら、数日前、誰かが夜中の3時に歩いていた。
そんなはずはない。スペインにいるので、泥棒だと思い、日本から持ち込んでいた剣道の竹刀を握りしめて、上まで様子を見に行ったが、ドアは閉まっていたし、人の気配はない。5階なので、泥棒じゃない。ところが、翌日も、またミシミシと音がしたので、深夜だったが、上の階のジェロームに「誰かいるけど、どうする?」とメッセージを送信した。
「すいません、明るくなってからでいいので、ドア開けて中の様子見てもらえますか?」と戻ってきた。翌朝、ドアをあけて恐る恐る室内を見回すけど、驚くべきことに異常なし。なんかすっきりしない気持ちで、家に戻ると、ぼくの寝室の大きな鏡に手形が二つ、くっきりとついていた。それも大きな男の人の手で、ぼくが手を伸ばして届く位置じゃなかった、さすがにぞっとしたが、幽霊に負けるとしつこく言い寄られるので、南無阿弥陀仏を唱えながら、モップですぐに消してやった。手ごわくないといいのだが…。
ぼくは霊感体質なのか、時々、そういう悪霊にとりつかれることがあり、何度か死にかけたことがあった。不意に、何者かに覆われるのだ。その都度、40度をこえる熱が出たかと思うとその数時間後には一気に熱が下がったり…。
一番酷い被害は2010年にぼくの監督作品「アカシア」が第22回東京国際映画祭のコンペティションに選ばれパリから東京入りした時のことだ。ぼくは長期滞在型ホテルに滞在していたのだが、明け方、恐ろしい霊が、というかエネルギーの塊に襲われ、なんと廊下を5メートルほど投げ飛ばされることになる。顔面から叩き落され、唇を十数針も縫う大事故になった。その時、頭の毛細血管が切れており、3か月後頭から血を抜かないとならない悲惨な目に陥ったのだ。(慢性硬膜下血腫と診断された)
※この件はあまりに信じがたいことなので、当時は、貧血で倒れて頭を打った、ということにしていた。お医者さんにもそう説明をした。まさか、霊に投げ飛ばされたとは、言えないので…。
その日、ぼくは六本ヒルズ病院から戻った足で、フロントに行き、「ここは昔、墓地だったでしょ」と詰め寄ると、朝番のスタッフが「ええ、そうです、何かありましたか」と言って来た。度々、霊が出る、とその人は行ったが、昼に来たスタッフの人たちは、そんな話しは聞いたことがない、と首をそろえ真横にふっていた。嘘だと思ったので調べたら、そこはやはりかつて、墓地だったのだ。お墓を移し、ホテルにしていたのである。
アメリカをアムトラックで横断した時にも、悪い霊との格闘があった。今から、20年ほど前のことである。夜に到着し、夕食後、モーテルのような宿に入った。寝ていると深夜に、どん、という強い圧力を受け、驚き目を覚ますと、ぼくの左腕が黒い黒人の女性の手で鷲掴みにされ、ベッドに押し付けられていたのである。不思議なことに、その人物の腕から先は見えない。
驚いたので、見ようとしなかったのかもしれないが、でもそれが太った女性であることだけはよくわかった。なんとか必死で、その悪霊を振り払い、手がぬるぬるするので、シャワーを浴びた。気持ちが落ち着くのを待ち、再び寝ると、まもなくして、どん、と再び押し付けられた。ぼくは全力で抵抗をしたが、その時、不意に口から出てきた言葉が、南無阿弥陀仏、であった。
ぼくは仏教徒じゃないし、信仰もないのだけど、この言葉にはそれ以降も救われている。南無阿弥陀仏を唱えると、悪霊は消えるようになった。4回か、5回、これを繰り返し、真夜中へとへとになってシャワーを浴びに行くと、シャワー室が内側からカギがかけられ入れなくなっていた。身の毛がよだった。
翌朝、ホテルを出ると、その宿の周囲は墓地だった。ニューオリンズのお墓は地面の上にあり、そこに死者が眠っているのだと、その時、フロントの人に聞いて腑に落ちた。晩年、浄土真宗の僧侶となった祖父が「ひとなり、悪いものにとりつかれた時は、なんまんだ、とお念仏を唱えなさい」と教えてくれたことがあった。このお念仏はフランスでもアメリカでも通じた。ぼくには特定の信仰がないので、詳しくは分からないのだけど、いざとなったら、南無阿弥陀仏、を念じるようにしている。