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滞仏日記「街角の哲学者が、コロナ不安を乗り越える術を語りき」 Posted on 2020/07/26 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、今日は我が町の哲学者アドリアンに呼び出されて、カフェのテラス席で盃を交わした。驚いたことに、コロナなんか恐れるに足らず、と豪語していたアドリアンの胸元にでっかいマスクがぶら下がっていた。
「よお、フィロゾフ(哲学者)、ついに、君もか」
ぼくがマスクを指さすと、
「ああ、エクリヴァン(作家)、法律には逆らえない。これがないと、今のフランスじゃ、罰金をとられるんだから、でも、みんなこの法律に感謝してるんじゃないか?」

滞仏日記「街角の哲学者が、コロナ不安を乗り越える術を語りき」



ぼくらはビールで乾杯をしあった。
「マスクが公共施設で義務付けられたことで、マスクをしてない人間に、しろ、ときちんと言うことが出来るし、入店を拒否することも出来る。新型コロナのような感染症は全員でルールを守らないと防ぎようがない。どこの国にもルールを守らない奴がいるんで、そこは法律で厳しくコントロールしないと、今回のような感染症は市民に委ねていても収束なんかしない。ツジ、日本にはいつ帰るんだ? この夏は帰らないのか?」
「二週間の隔離はきついから、帰らない。直行便も今まで飛んでなかった。8月は飛ぶかもしれないけど、分からない。君こそ、南アに戻らないのか?(アドリアンは南ア大の哲学の教授である)」
「同じく、飛行機が飛んでない。あと、南アフリカでも感染が拡大中だ。暫く無理だな。日本も、この感じだとオリンピックは中止だろう」
「中止じゃなく、今年は、延期だよ」
「いやいや、今年の話しじゃない。来年の夏もまず無理だから」
「マジか。エビデンスは?」
「エビデンス? 未知の感染症にエビデンスか、たまげた。じゃあ、逆に訊くが、なんで今がこんな状態なのに、出来ると思っていられるんだ?」
「・・・」

「アメリカやブラジル、インドにアフリカを見てみろ。今日一日だけで、29万弱の人間が世界で感染しているんだ。たった一日で、だ。しかも、それは表に出ている数字に過ぎない。その十倍は感染者が出ていると科学者は言ってる。毎日、世界最多を更新中だ。日本が大丈夫でも、考えて見ろよ、どこの国も選手を派遣出来ない。仮にワクチンがぎりぎり開発されたとしよう。酷いワクチンが認可されたとして、それをうって選手がゲームする姿、いったい誰が想像できる。で、結局、すったもんだがあって、IOCの会長は直前に梯子を外す。現にあの男は、中止について否定をしてない。知ってたか? その時の被害額を日本人は想像したことがあるか? フランスは4年後のオリンピックを疑ってる。だから、スタジアムなどの計画を次々白紙に戻した。金をかけないばかりか、競技種目を減らすことさえ考えている。マクロンがバッハに、俺たちは様子見るよ、と言った。コロナ次第なんだよ。4年後でさえも、見えない状況なのに、来年の夏に華々しい開催が出来ると思っているのが不思議ではならない。俺だって、東京オリンピックは成功してもらいたい。日本は大好きだ。でも、失敗したら、どうなるかを考えるのが政治家というものだ」
アドリアンは、ピザを注文した。食わないぞ、と言ったが、お前のためじゃない、俺はピザがないとビールが喉を通らないんだ、と言って大きな腹を摩った。

滞仏日記「街角の哲学者が、コロナ不安を乗り越える術を語りき」



「なあ、君は哲学者だろ。一つ訊いてもいいかな」
「もちろんだ」
「ぼくらはどういう心構えで、この第二波とでもいえる現状と向き合えばいいのだろう」
アドリアンはピザを頬張りながら、考え込んだ。ナフキンで口元をぬぐい、そうだね、と言った。
「正直、この感染症パンデミックは人類が希望するような早さで消え去ることがないんだ。だから、ぼくら人間も、同じような気の長い気持ちでこれと向き合うしかない。これが結論だ。なので、毎日、怯えたり、神経質になり過ぎて壊れてしまってはならない。まず、深呼吸をして、長い戦いに備えよう、と自分にいい聞かせることが大事になる。年内に収束するはずだ、とか、いついつには元通りになる、という希望的観測で行動してはならない。その時にならないと何が出来るかわからないので、不安だと思うが、それを見越していろいろと今後のことを長いスパンで考えていくのがいい。何が起こってもおかしくない、と悟ることも大事だ。大病をして生死を彷徨って、生き返った人のような気持ちで、これからの未来を見つめていくのがいいだろう。一度、失った価値観なのだから、ここからもう一度新しい価値観を作っていくんだ、と考えていけばいいと思う。焦っちゃいけない。しがみついちゃいけない。過去にとらわれてはいけない。大切な人と生きていければいい、と思うことが大事だ。身近な人を大事に思って、毎日を生きていきなさい。目が覚めたら、今日を生きていられることは素晴らしいと思うこと。当たり前のことがどんなに大事か、感謝しながら生きることだ」 

滞仏日記「街角の哲学者が、コロナ不安を乗り越える術を語りき」

※追記。 アドリアンはいつも眼鏡を二つ、ぶら下げている。新聞を読むための眼鏡、そして、世界を凝視するためのもの。ポケットには必ずボールペン、そして、白いのには葉巻が入っている、読んでいる新聞は「ル・モンド」だ。顔は怖いけど、笑顔はチャーミング!しかし、カメラを向けるといつも怖い顔をする。



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