JINSEI STORIES
滞仏日記「街の哲学者アドリアン、日本のGOTOトラベルにかく語りき」 Posted on 2020/07/19 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、ぼくは朝からずっと仕事をしていた。週末だが、特に用事もない。文芸誌すばるの小説「十年後の恋」の校正チェックを終わらせた。同時に来月緊急出版されることになったエッセイ集のゲラをチェックし、毎日新聞でカヌーのメダリスト羽根田卓也選手との一年後に迫ったオリンピックについてのリモート対談があり、大学関係者とかスタッフとのZOOM会議を行い、月刊dancyuと女性自身の連載とか他の飛び込みのエッセイを執筆していたらあっという間に夕方になり、こんなに働いていたら人生が終わる、今日が終わる、もったいない、と慌ててマスクをつかんで、外に飛び出した。
週末のパリは穏やかで静かで人が少なかった。月曜日からマスクが義務化されるからか、外を歩いている人のマスク率が物凄く高くなっていてびっくりした。光りの美しい穏やかな土曜日だった。教会に差し掛かると広場のベンチに街の哲学者、アドリアンの姿を見つけた。葉巻を燻らせながら新聞を読んでいた。近づき、声をかけた。
「よお、フィロゾフ(哲学者)」
「やあ、エクリヴァン(作家)」
ぼくは彼の横に腰を落ち着け、聳える教会を見上げた。
「さあ、今日は何の話しかな?」
アドリアンが半身をこちらに向け、ぎょろッとした目を撓らせた。頭部には毛髪がないが、奇妙なことに頬のところから数センチの髭が数本にょろにょろと伸びていてそれが気になって仕方なかった。身長はぼくとそんなに変わらないがスキンヘッド頭もずんぐり体もぼくの倍はある。西洋人だから、目も鼻も耳もとにかく大きい。映画俳優のジャンギャバンに似ているけど、顔がものを言う苦み走った男だ。西洋人のこの手の顔にしかしぼくは騙されなくなった。
「ナントの大聖堂が大火災だ。放火だろうな。消防が駆けつけた時、3か所の別々の場所で火の手があがっていたというんだから」
「放火でも驚かない。最近は何が起きても驚かなくなった。寂しいけど、驚かない」
ぼくがそう言うと、まったくだ、とアドリアンが同意した。
「日本はどうだ? コロナはどうなった?」
「感染者が急に増えだして、みんなかなりぴりぴりしている。その中でも東京都の感染者が突出している。今日は293人だった。ちょっと前は100人超えで大騒ぎになり、今週は200人超えで大騒ぎ、もっともこの数日間290人あたりで見事に止まっていて、ほぼ300人なんだけど、なんでか、東京都が出す数字は百単位を超える手前で様子見るみたいに足踏みが続く。操作しているとは思わないけど、一千万人都市だというのに、こんなに見事に数字が毎日並ぶのは、欧州の感染者数の推移からすると奇妙だよね。日本人は1000円の商品を999円と謳うと安いと思う性格だから、東京都が都民を安心させたくて、300人を超す手前で発表しているのかな、と疑いたくなるくらい、綺麗な並びなんだ」
アドリアンは苦笑しながら肩を竦め、新聞を丸めて、その先っちょをぼくに向けた。
「君の日本の友だちに言ってやるといい。感染者数なんか気にするなって。そんなのたかが数字に過ぎない。イランのロウハニ大統領が今日、イランは推計2500万人が感染したと言った。これまで発表されていた世界の感染者数は1400万人くらいだから、それよりも1千万人多いことになる。でたらめな数字だが、ロウハニが250万人というところを言い間違えたとしたら側近が忠告する。そのままメディアに流れたということは、何か意図があるのだろう。今後さらに3000万人以上が感染する可能性があると危惧を言葉にしている。もともと、イランでは初期に感染爆発が起きたけどその後、突然、報道が途絶えていたからね、安定していると見せてきたけど、内部では物凄いことが起きていた可能性もある。しかし、2500万人ってのは、もう、想像をこえた数字だ。国民の三人に一人が感染していることになる。世界に対して、支援を求めているのかもしれない。一方で、アメリカの今日の感染者数は7万を超えて、もうすぐ8万人というところだ。300人であろうと、293人であろうとこのアメリカやイランから飛んでくる数字を前にしたら、人類は感染者数に振り回されているという気持ちにならないか? 7人減らして発表したっていいじゃないか。それで999円のような気持ちになれる日本人は素晴らしいよ」
ぼくは嘆息を零した。いつものアドリアン節が始まった。
「ただ、哲学を生業にするものとして言いたいのは、感染者数の小さな変動を気にし過ぎて精神を壊しちゃ元も子もないということだ。死者数や、集中治療室のベッドの空き具合だとか、回復していく人たちの率とか、陽性率を注意深く眺めていれば問題ない。ちなみにフランスでは一週間で約40万件のPCR検査をやっている。日本の人口の半分の国で、この数だからね、日本がどのくらいやってるかしらないけど、フランスのレベルをやるならば、一週間で80万件ほどやらなければならない。そうなると、陽性率はもっと上がるかもしれない。注意すべきことはそこだ。感染者のそういう一部の数じゃなく、本当の率だよ」
そこでぼくは政府が22日からやろうとしている『GOTOトラベル』のことを説明した。政府も混乱し、不意に、感染者が多く出ている東京都だけ除外されたことも伝えた。経済か命かの議論が起こり、反対署名運動も起きている。
「なるほど、面白い企画だけど、日本人は子供っぽいところがあるね。293人とか300人という数字ばかり毎日固唾をのんで気にして、政府は勝手にこういうキャンペーンをやって、経済を一気に取り戻そうとしている。大事なことを忘れている。予防対策をとってない連中が大挙観光地に行って大宴会でも繰り返せば感染者が出るのは当たり前だけど、しかし、旅や旅行がダメということはないんじゃないの? 旅をする人も、受け入れる観光地側も、しっかりと感染防止策を立てていれば安全じゃないのか? 言っとくがこの先何年も、もしかると永遠にコロナは収束しないかもしれないのに、夏休み、旅行しない、家に閉じ籠もるじゃ、先に人間が壊れちゃわないか? ぼくも来週からバカンスに出るが、キャンピングカーを借りて恋人と二人で人のほとんどいない山奥に行く。これも立派な旅だ。日本人はツアー以外は旅とは思わないのか? 自分の命は自分で守り、旅がしたければそういうキャンペーンなんか関係なく、安全な旅を自分で計画すればいいし、お金が欲しい観光地は徹底した予防を講じて受け入れたらいい。行く側もマスク、フェイスシールド、消毒ジェルで徹底防備し、受け入れる側はもっと厳しくやれば罹りようがないだろう。日本人の衛生観念は世界一高いんだから、それを徹底出来れば問題はない。GOTOキャンペーンを組んで人を集めツアーやって、どこかでクラスターが出たら、真面目で神経質な日本人は大パニックになるんじゃないのか。ツアーじゃなくて、個人で旅行したらいいんだよ。外国行くわけじゃないし、いちいち政府が音頭とって旅行代理店がツアー仕込んでって旅もいいけど、そういうツアーに参加するの、間違いなくお年寄りだろ? 逆に危険じゃないか。感染者300人が400人になっても、数字に踊らされないことだ。大事なことは自己防衛力だ」