JINSEI STORIES
滞仏日記「息子からSOS」 Posted on 2020/07/14 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、一人でランチを食べ、昼寝をして、少し仕事をして、買い物に行き、夕飯を作って一人で食べ、食後にコーヒーを飲んでいると、携帯が鳴った。覗くと、女友だちの田舎の家に滞在中の息子からである。
「電話なんて珍しいじゃん。どったの?」
「あのね、相談があるんだ」
「ほおほお」
ぼくはソファに寝転んでいたが、起き上がって、座り直した。
「アンナの家族は優しいし、そこに集まった友だちたちもみんないい子たちで、いろいろと勉強になっているんだけど、考えてみてほしい。女性が18人、男性がぼくとアンナのお父さんの二人っていうのが、結構、きつくなってきた」
「あー、なるほど」
彼が出発して10日くらいが過ぎようとしている。あと3,4日でパリに戻る予定だったと思う。10日間もアンナの家族や友達たちの中で生活が出来たことは褒めてあげたい。でも、きついというのも理解出来る。
「それと、話しづらいのだけど、ぼくのガールフレンドがあまりいい顔をしないんだ。ここにいるのを」
「ハハーん」
とぼくの顔がにやけてしまった。
「ちゃんと説明したのか?」
「したんだけど、分かってもらえていると思ってたから、不意に連絡がつかなくなって、もしかしたら、女友だちの家族のところにぼくがいて、寝泊まりしているの、嫌なのかな、って思った」
「嫌だろ、普通は」
「そうなの? だって、アンナは友だちだよ。ぜんぜん、そういう感情を持ったことがないし、意味がわからない」
こりゃあ、困った、とぼくは思った。この子は非常に開かれた感性を持っていて、小さい頃から、男とか女というジェンダーで人間の役割を分けるのをものすごく嫌うのだ。ぼくが前に、アンナは料理作れるのか、と訊いたら息子は、料理作るのが女の仕事とかって、おかしいし、差別だと思わないの、と血相変えて怒ったことがあった。男とか女というジェンダーの壁はおかしいじゃん、とまるでぼくのようなことを言うので、親子だな、と思ったら口元が緩んでしまった。でも、とぼくは思うのだ。自分はそれでいいのだけど、相手がみんな性別を超越して物事を見ている、捉えているとは限らないので、自分のスタンスだけで一方的に他人と向き合うと当然、こういうことが起こる。ガールフレンドからすると、自分の彼氏が女友だちの家に泊ってその家族と仲良くしているのに違和感を覚えて当然なのだけど、当の本人は全く女ごころが分からない。「女ごころ」などと言おうものなら「差別」と怒鳴られてしまう。でも、年ごろの女の子に、男女に差はないと言って、通じるわけがない。けれども、うちの子、いくら説明をしても頑固だから、わかっちゃくれないのである。
「ちょっと、質問」
「なに?」
「アンナの家にいる時、ガールフレンド君と連絡取り合ってたの? いつも、一晩中話し込んでるじゃない? みんなが寝た後とかに電話とかしてたの?」
「出来ないよ、そんなの。みんないるのに、出来るわけないじゃん。メッセージだって滅多に送れないもの」
ぼくは思わず、マジか、と声が飛び出してしまった。そりゃ、あかん。
「なに?」
「いや、家に帰ってきたら、そのことについて、ちょっと話しをしようか、で、帰りたいってわけだな?」
「うん、そうなんだ。アンナたちの滞在が伸びそうなんだよ。あと、一週間、ここにいたいとかみんな言い出している。それはもう限界なので、だったら戻ろうかな、と思っているんだけど、大きな問題がある」
「なに?」
「ここは田舎過ぎて、電車が通ってないんだ。一番近い駅まで車で一時間かかる。ぼくの我儘でアンナのお父さんに送ってもらうわけにいかないでしょ?」
「パパはいいのか? お前のアッシー君で?」
「あっしー?」
住所を聞いたので、グーグルマップで調べたら、道が超いりくんでおり、パリから車で3時間30分もかかる場所であった。行って帰るだけで往復7時間、眩暈がした。
「一つ、言ってもいいか?」
「いいよ」
「君は、まだ何にもわかっちゃいないんだよ。ガールフレンドとか、女友だちだとか、カテゴライズしてるけど、じゃあ、聞くけど、その差は何だ?」
「どういう意味?」
「そうやってカテゴライズするのを面白がってるようにしか思えない。本質はそんな形式ばったことじゃないよ。相手も同じ考えかどうか、考えたことがあるのか?」
「パパ、大丈夫? 意味が分からない」
「ガールフレンドは君に自分だけを見てほしいと思ってるかもしれない、とは考えたことがないのか?」
「それは間違えてる。人間は誰かだけを見続けて生きて行くことはできない」
「ガールフレンド君のこと、パパは知らないけど、その子は、君に自分だけを見てほしいと思ってると、思ったことはないのか?」
「だから、その考え方がそもそもおかしいじゃない」
「自分だけを見てほしいんだよ。それが恋する乙女の気持ちだ」
「だから、パパ、それは差別だよ」
ということで、親子の会話は成立しなかった。もちろん、息子の考え方は素晴らしいとは思うけど、相手を理解して、相手に寄り添ってこその愛もある。どんなに正しくても自分のやり方だけを押し付けていたら、相手は離れていく。そのことを、言葉で教えるのは容易なことじゃなかった。彼が自分で少しずつ経験を積んで気づいていくしかない。
「迎えに行くよ。でも、あまりに遠いし、パパも休みたいから、二日ばかし貰えるかな? せっかくだから、田舎をゆっくりと旅しながら迎えに行くことにするよ」
ということで、再び、ぼくは旅することになった。