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再・第六感日記「天使や妖精が見えていた頃、今はぼくの心の中で光るもの」 Posted on 2022/10/22 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、ふっと小さな頃に天使とか妖精が見えていたことを思い出した。いつの頃から彼らが(もしかしたら彼女らだろうか)見えなくなったのだろう。子供の頃はあまりに見えすぎるので、自分はおかしくなったのか、と心配になったものだ。誰にも相談できずにいたけれど、大人になって、忙しくなって、お金を稼ぎだして、女の子のことばっかり考えるようになり、たぶん成長のせいで、天使たちがいなくなってしまった。

もしかするといるのかもしれないけど、出てこなくなった。それが大人になるということかもしれないけど、しかしぼくは天使がいることは知っているぞ、と思うと微笑みが生まれる。この微笑みが、ぼくにとって、今は天使でもある。そもそも、天使はみんなが思うような空に浮いて羽根を生やしたぷくぷくの少年じゃなかった。



朝の8時に、ドアベルが鳴ったので、寝ぼけ眼を擦りながら出たら、工具を持った工事業者の人で、水漏れによる壁の湿度を測りに来たのだった。玄関と子供部屋の湿度はまだかなり酷く、
「壁の塗り替えは一年後だね」
とその人は言った。
家の半分ほどが水漏れにより天井の一部が崩落したり、壁にひび割れなどが走ったのだけど、サロン(リビングルーム)の水漏れだけはなかった。他が酷くても、サロンの天井の天使が被害を免れたことは不幸中の幸いであった。なぜなら、ぼくがこのエレベーターもない、120年の歴史を持つアパルトマンに住む決め手となったのがここに住んでいる天使たちの存在によったからである。

このサロンにだけ天井を縁取る19世紀末のレリーフの飾りが施されていた。花畑の中に8体の天使がいて、それがあまりに素敵だったので、借りることを即決した。もちろん、子供の頃に見えていた輝く者たちはこういう恰好をしていたわけじゃない。大人になる過程で、いろいろな書物とか映画とか写真を通してイメージが象られたに過ぎない。それがどうであれ、この部屋にいると、落ち着く。

再・第六感日記「天使や妖精が見えていた頃、今はぼくの心の中で光るもの」

ぼくが子供の頃に見ていた天使や妖精というのは光りの塊だった。ある時はものすごい小さな光りの点だったり、集合体だったり、それは空を見上げると、そこら中に飛び交っていて、光りの中から生まれ出た、まるで光りの虫だった。だいたい、光りの中にいて、空間から出たり入ったり、飛んでるわけじゃないけど、発光しては消えていくのを繰り返した。大きいものもあり、オーブではなくて、それはフラッシュして現れて消えるのだけど、そういうものは森の入り口とかに、よく出現した。

きっとこういう現象から大昔にある人たちが天使をイメージしたのかもしれない。大学生くらいまでよく見えていたけど、その回数はどんどん減って、もう今はほとんど見えない。でも、そういうものがぼくらが生きている現実の世界と重なったもう一つの世界に存在しているのだろうな、と今でも思い続けている。それをヒントにぼくはいくつかの小説を書いた。

そういえば、十年以上前のことだけど、知人から「最後の晩餐」があるサンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂修道院の近くにある小さな教会のマリアさんがウインクをしますよ、と教えられたことがある。人によって光りの屈折ですよ、という人もいるし、ぜんぜん見えない、という人も結構いた。最後の晩餐には行列が出来るのだけど、この絵の前には地元民しかいない。それも静かに遠くから見守っていて、ウインクをしようが、瞬きをしようが、そこが重要じゃない、その土地に縁のある方々ばかりだった。ぼくはその人たちのお祈りを邪魔しないように、こっそりとそこへ息子と出かける。

再・第六感日記「天使や妖精が見えていた頃、今はぼくの心の中で光るもの」



ウインクは片側からはじまり、反対側へと静かに移る。それもかなりゆっくりとした瞬きなのだ。柵があるので2メートル以上離れているのだけど、はっきりと見えた。「パパ、ウインクしているマリア様が」と息子が言ったけど驚いている様子はなかった。子供のそういう大騒ぎしないところが好きだ。

今までに、二回、そこを訪ねているけど、二回ともはっきりと見えた。こっそりと訪れ、手を合わせ、優しい気持ちになって、そこから静かに立ち去る。それを奇跡だとは思わなかった。なので、ぼくは微笑む時に、いつもマリアのウインクを思い出す。人間が優しく微笑むという行為の中に天使がいると思うようになった。天使という記号について解釈は様々でいいのだけど、心の中にいる光り、だと思っている。 

再・第六感日記「天使や妖精が見えていた頃、今はぼくの心の中で光るもの」

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