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滞仏日記「ぼくは今、これからどう生きるべきか、考えている」 Posted on 2020/07/01 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、新型コロナの出現で、世界は変わったけれど、一番変わったのは自分だと気が付いた。このパンデミックの中でぼくはこれからの自分の生き方を変えなければならない、と真剣に考えるようになった。今日、6区のボンマルシェ(デパート)に行ったが入店にはマスクが義務付けられており、入り口で店員さんが消毒ジェルを一人一人の手の中にプッシュしていた。広い店内、マスクをした人々が高級な服をしげしげと眺めていて、その美しいデザインと無骨なマスクとの間に物凄いへだたりを覚えた。今日、美容室で髪をカットしたが全員マスクを付け、喋らず、笑わず、明らかに客も美容師も神経質になっていた。新型コロナを怖がって、ぼくらの日常は一変したけれど、実は、変わったのは日常だけじゃなく、人間における生きる意味、なんじゃないか、と思うようになった。価値観が変わったという意見が多いけれど、もっと厳密に言うと、これまでの生き方への疑問を感じるようになったということ、違った生き方を模索し始めたということ、につきる。それはどういうことかというと、執着からの脱却、である。



ぼくの個人的な変化について語る。ぼくは食べることに執着を持っていたけれど、若い頃にはいわゆるガストロノミー(美食)に魅了され、どこどこの店が世界一と食べ歩き豪語していた。今は自然なもの、とれたての食材、なんならコメと塩、みたいな食意識になりつつある。美味しいものは食べたいけど、食べたいものの中身が、美味しいの定義が、星の数とかじゃなく、変わってきた。物凄く美味しい人参や梅が食べたい。漁師が釣った魚をその場で食べたい。自分で育てた野菜を新鮮な状態で食べてみたい、と思うようになった。ぼくの知り合いで、農業をやりたいという人が増えている。実は先週、ノルマンディ―を旅しながら、ぼくは畑が出来る土地を探していた。農業をやっている人が言っていたのだけど、農作物っていうのは揉めずに分配できるらしい。ジャガイモが多くとれたので、人参が立派に育ったので分けるというのが、難しい理屈を超えて、普通に出来るのだとか。金塊とか株だと、そこに私欲が働いて、そうはいかない。野菜とか米とか果物は多く出来たら、仲間たちと素直に分け合えるんです、とその畑を持っている知人が幸福そうに言った。そう言えば昔は、物々交換してたんだよね。米とか野菜だったら、物々交換ができる。うちのきゅうりとおたくのカボチャを交換しようって。(笑)。もっともぼくは畑仕事が出来るような根気もなく、性格的にも無理だけど、生きるのに必要な最低限の野菜くらいなら育てられるだろう。ネットさえあれば、ぼくの日常がどこを拠点にしていようが、世界と繋がり続けることはできる。ずいぶん、お爺さんみたいな考えですね、と笑われそうだけど、このくらいの勢いでぼくの価値観が変化しつつあるということであり、このきっかけをぼくに与えてくれたのが新型コロナウイルスだった。パリの会社員たちはロックダウンが終わった今も会社に戻らないで家でテレワークをしている人が多い。彼らの中の一人がぼくに昨日、SMSを送って来た。
「だって、会社に行かないでも世の中が回ることがわかっちゃったから」



コロナが世界をめちゃくちゃにしなければ、これまで通りの価値観や金銭欲や野望を「夢」と呼んで生き続けていたかもしれない。勘違いしてほしくないのだけど、世捨て人になるというわけじゃない。適度に文明とは関係を持ちながらも、文明に執着しないで生きるということ。生きることの意味がかつて信じていたものだけじゃなく、もっと違った角度の可能性があることに気づいちゃったってこと。引退して山の家に引っ越して余生を送るのが目的じゃない。なんだろう、うまく言えないけれど、この世が魂が進化するための修行の場であるならば、不意にこの世界を襲ったパンデミックを思考の変更の機会と捉えらえて、これからの人生をじっくりと見つめていきたいのである。都会を離れたいと思うのは、増殖や繰り返しをやめたい、ということの言い換え過ぎない。都会にいても新しい変化を生きられるならそれでもかまわない。それはノルマンディでも、阿蘇山の麓でも、アラスカの農場でも、どこでもいい。騒音から耳を塞ぎ、自己と向き合える生活の場であるならば…。執着からの脱却というのは、心の平安があってこそ可能な状態であろう。今日はそんなことを考えていた。

滞仏日記「ぼくは今、これからどう生きるべきか、考えている」

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