JINSEI STORIES
滞仏日記「あのフォーションが潰れた。フランスが、欧州がやばい」 Posted on 2020/06/27 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、アメリカの昨日一日の感染者数が4万人になった。24時間で4万人感染って、いったいどういうことだ? 世界の死者は49万人になったそうだが、感染が収まる気配がない。アメリカ州は大変なことになっている。買い物に出たら近所でレストランを経営するアントワンヌと出会った。ロックダウン前は二週間に一度くらいの割合で顔を出していた名物店である。
「どう?」
何かを求めて、どう? と訊いたわけじゃなく、あいさつ程度の意味合いだったが、アントワンヌは浮かない顔になり、最低だよ、と吐き捨てた。アントワンヌの店は星こそ持ってないが、モダンなヌーベルキュイジーヌを売りにしており、ロックダウン前は繁盛していた。
「ガラガラだよ」
「そんなに? 」
「ああ、そこの一つ星レストランは再オープン初日こそ満席だったが、二日後からガラガラで、今はゼロの日もあるみたいだ」
びっくりした。アントワンヌは大通りの先を指さし、
「角の三つ星ね、10月まで店を閉めるらしいよ。三ツ星レストランくらいになると観光客がメインだからね、だいたい一食360ユーロ(4万円以上)を払える地元民なんかいるわけがない。客が戻るまで、オーナーは開けないつもりだ。ま、しょうがないね。開ければ赤字なんだから」
と言った。
「たしかに」
名前を出せば、誰でも知るパリの超有名レストランだが、こういうガストロノミーの有名店の顧客はほとんどが中国人やアメリカ人観光客である。
「フォーションも潰れたんだよ、ツジ」
「なんだって?」
びっくりした。フォーションが? パリを訪れる観光客が必ず立ち寄るフレンチ食材の老舗で、チョコレートや焼き菓子、ワインにジャム、フォアグラの詰め合わせなどを扱っている。カフェやレストランも併設しており、パリの高級食材と言えばフォーションというほどに有名だ。そのパリを背負ってきた店が潰れたというのだから尋常じゃない。
「やばいね」
「ああ、観光で成り立っているフランスにとってコロナは致命傷になった」
そこまでとは知らなかった。ロックダウンが解除になり、ここに来て現実が露呈してきたということであろう。さらに倒産をしたり、閉店に追い込まれるところが出てくるに違いない。
「ツジ、うちもいつまで続けられるか分からない。潰れる前に来てくれよ」
昼食を食べに出かけようとしていると、スエーデン人のエミールから電話が入った。息子の学校の同級生のお父さんで、この国の脂肪吸引の第一人者だ。引っ張りだこの美容整形のお医者だった。
「急なんだけど、国に帰ることになった。子供たちの将来のことなど考えると、無理してパリにいるより、国には家があるし、経済的にもその方がいいかな、ということになってね。こんな時代だ、美容整形どころじゃないんだよ、みんな」
実は、ここのところ、日本人、韓国人、台湾人、オーストラリア人、アメリカ人の友だちが次々、帰国を決意している。しかも、みんな急なのだ。今月中にはフランスを離れるというのである。映画関係、輸入業者、ファッション関係、飲食関係、などなど。不動産屋のアンヌ・マリーが
「ぜんぜん、物件が動かないのよ。解約だけはものすごく多いのだけど」
とこぼしていた。外国人がフランスから離れるか、離れようとしていた。景気が悪いのに違いない。
昼、3ヶ月ぶりに辻家の食堂、マダム・メイライの中華レストランに顔を出したが、お客が一人もいなかった。メイライが困惑した顔で奥から出てきて、
「酷いもんでしょ、やっとロックダウンが解除になって、再開となったはいいけど、お客さんがロックダウン前の3分の1程度しかいないの、とてもじゃないけどやっていけないわ」
と言った。その絶望感が痛々しかった。6月22日にフランス全土のレストランが再オープンした。でも、確かに最初の、2、3日はよかったが、客を戻した店と戻せない状態の店との明暗が分かれた格好である。原因はまだわからないけど、客は、お金を持っている年配客を中心に、やはりどこかでコロナを怖がっている。
「メイライ、ぼくらは出来る限り来るから安心をしてね」
こう告げるのが精一杯だった。メイライが一瞬笑顔を浮かべたが、次の瞬間、不意に暗くなってしまった。そして、背後を振り返り、
「グレゴリーさんが逝ったのよ」
と小さな声で言った。ぼくは驚き、思わず立ち上がってしまった。長い付き合いで、彼の誕生日会にも参加させてもらったことがあった。ここの常連で、(日記にも何度か登場している)毎日、昼と夜、あの角の席に座り食事をしていた。つい、ロックダウン前にも、いつもの席で、羊肉のステーキを食べていたというのに!持病があったので、いつも車椅子で24時間付きっ切りの介護の人が世話をしていた。
「まさか、コロナで?」
「いいえ、そうじゃないけど、でも、考えてみて、彼はここに日に二回、食事に来ていたの。介護の人は食事を作ることが出来ない。私たちが店を閉めていた間、ずっと冷凍食品だったかもしれない。あの人は100歳近いのよ。老衰だと聞いたけど、生きる気力が出なくなったのもしれないわ」
いつも目が合うと、小さく微笑みを向けてくれたまるで映画の中に出てくるような優しいお爺さんで、どんな時も背広を着て、ネクタイをしていた。オールドスクールを絵に描いたような紳士の中の紳士だった。
「子供たちはロンドンにいたけど、誰ひとり来なかった。ロックダウン中だったからしょうがないけど、解除になっても誰も来ない。私と夫で彼の出棺を手伝ったのよ」
メイライの店は中華料理なのだけど、優しい味付けなので客のほとんどが高齢者だった。そして、そのことはぼくもずっと心配をしていた。持病を持ちコロナに罹ると重篤化する確率の高い高齢者たちが戻ってくるだろうか、…。近くの会社の若い社員がテイクアウトのお弁当を取りに来るのだけど、店の中で待つことはなく、通りの反対側の日陰にいて、料理が出来るのを待っているのである。
まだ、ロックダウンが解除になって一月半…。これから、じわじわとボディブローが効いてくる。フランス経済が元通りに戻るまでに物凄く長い道のりが必要かもしれない。フランスだけじゃなく、欧州全体が厳しくなる。日本もそうかもしれない。ある程度の覚悟をしておく必要があるだろう。コロナの収束はまだ見えていない。