JINSEI STORIES

滞仏日記「息子とぼくを繋ぐ絆は最初、反目と反発と束縛の鎖だった」 Posted on 2020/06/08 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、絆という言葉をぼくはよく使う。とっても日本語的な単語で、情に迫ってくる優しい温度を持っている。英語やフランス語にも近い単語があるが、日本人が使う「絆」ほど精神性の強い意味合いの言葉ではない。フランス語だとle lienという言葉がそれにあたるが、この単語はもともとリンクとか接続を意味し、ようは二つのものを繋ぐこと。日本語の絆は「家族の絆」とか「夫婦の絆」とか「永遠の絆」というように使い、精神的つながりを現している。温かい言葉なので、ぼくもよく使うけれど、しかし、実はこの「絆」もともとは「馬の脚に絡めて縛る紐」のことであった。それが転じて、「人を束縛する義理・人情のたとえ」となり、これがさらに長い年月の中でいい意味に変換させられてきたのである。



ぼくと息子はある日、もう7年前に、まさに二人で生きることになり、親戚もいない異国暮らしに突入し、いわば、お互いを束縛し合う関係となった。まさに最初は悪い意味での「絆」的関係の中に置かれていたのだ。でも、そこは焦らず、ぼくは時間に委ねることにした。生活という日々の中で、ぼくらは少しずつその関係を温め、生き続けることになる。

テレビ制作会社のNさんから「コロナの時代、ウクレレで世界を繋ぐ番組を作りたいので」と話しが舞い込んできたのは、まだロックダウンの最中、4月末のことであった。ぼくはウクレレを弾かないので、フランスで暮らすミュージシャンなどを紹介し、ほったらかしていたら、ロックダウンが解除になったその日に「出演してもらえないか」と連絡がきた。息子は弾くが、残念ながらぼくは弾かないと断った。「息子さんと共演してもらえないですか」とNさんに提案された。やってみたかったけど、正直、無理だろう、と思った。息子は親と違って、目立つのが嫌いな子なのだ。シャイで、晩熟で、多くを語らない子だ。この手の話しは悉く断られ続けてきた。夕食の時間に、ウクレレの番組出演の話しが来てるんだけど、どう思う?と断られることを覚悟で訊いてみたのだ、そしたら、ウクレレならやってみたい、と意外な返事が戻って来た。 

このウクレレはぼくがパリに移り住む時に持ってきたものだ。ハワイのホノルルで、30代の頃に買った老齢の職人が作ったハンドメイドのウクレレである。ウクレレの優しい音色が、もしかすると欧州での未知の暮らしを癒す道具になるかもしれない、となんとなく思って、手荷物で空輸した。でも、結局、ぼくはウクレレの練習もせず、ケースに入れて仕舞ったままだった。ところが、先の引っ越しの折に、息子がそれを発見し、爪弾きはじめた。貸して、というので、いいよ、と言った。

この子は僕と二人暮らしになった頃から本格的に音楽をやるようになった。ビートボックスが最初で、今はヒップホップにハマっている。友だちとグループを結成し、sportifyなどで楽曲を匿名で発表している。しかし、ぼくに頼ったことが無い。独学でずっとやって来た。ぼくのコンサートには来たがらないし、来ても楽屋から出ない。何か、ぼくの活動に反目し続けてきた。父子二人切りの関係というものへの無言の抵抗のようなものを感じてならなかった。自分の人生への不満とか、反発があった。もちろん、ぼくへの感謝も多少はあるのだろう、その二つの気持ちの板挟みで暮らしてきたような…。そのくせ、彼は音楽活動を趣味として選んだ。いい子なのだけど、頑固で、負けず嫌いで、我が道を行く性格。自分は親のような生き方はしたくない、が口癖だった。なので、こちらも手を差し伸べることはしなかった。教えて、と言われたらちゃんと教えてやりたかったけれど、そうだ、一度だけ、コードを教えたことがあった。でも、その一度だけだった。



今、息子の部屋は電子機材だらけ、ちょっとしたハウススタジオみたいになっている。キーボードやレコーディング機材、各種エフェクターまで揃って、一日中、曲作りをしている。その電子楽器の中に、このウクレレがある。時々、彼の部屋からウクレレの優しい音が聞こえてくる。どうやら、彼にウクレレを教えたのはYouTubeだ。そして、息子がいつも弾いていたのがこの「Fly me to the Moon」である。

彼の歌の方がぼくよりずっと味がある。低い声で、優しい。収録日の前日、二人で音合わせをした。一緒に歌おうよ、と誘ったが、やだ、と断られた。でも、練習には付き合ってくれた。気恥ずかしい思いが二人の間にはあった。まる七年、ぼくらはある種の絆を深めてきた。悪い意味の絆からはじまり、いい意味の絆へと少しずつ変化してきた。

絆は最初から絆じゃなかった。二人切りの暮らしが始まった時、ぼくらはギスギスしていたし、反目もあった。こういう境遇にある日突然置かれた悲しみと怒りもあったと思う。明るい子だったけど、あの日を境に多くを語らなくなった。でも、小学生だった息子は高校生になり、毎年、365日こんなダメおやじと一緒に生きてきたのだ。悪い意味の絆は、長い時間の中で、和解し成長を遂げ、いい意味の絆へと変貌した。もともと「縛り合う」という意味だった絆だからこそ、長い歴史の中で、「つながり、支え合う」に変化していくことが出来たのだ。悪い意味の絆があったからこそ、いい意味の絆が生まれ、親子の関係も深まることが出来たのだろう。収録の日、セ~ノで演奏したのが、この映像になる。NHKさんの許可を頂いたので、ぜひ、聞いてもらいたい。この演奏の中にぼくらの「絆」がある。

演奏の様子はこちらから➡️ https://youtu.be/be690_G_SLU

滞仏日記「息子とぼくを繋ぐ絆は最初、反目と反発と束縛の鎖だった」

自分流×帝京大学