JINSEI STORIES
滞仏日記「ぼくの目の前で、不意に黒人青年が警察に取り押さえられた」 Posted on 2020/06/04 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、散歩をしていたら、不意に、怒声が響き渡った。尋常じゃない声で、明らかに緊急性を含んだ怒鳴り声であった。警察車両に隠れて見えない。
「早く、エンジン切って、こっち来いよ。何もたもたしてんだ。緊急事態だ!」
警察車両の中でくつろいでいた警官が慌てて降りて、警察車両反対側へと回ったので、ぼくも用心しながら覗き込んだ。すると、怒鳴っている警官が黒人の青年を壁に押し付けていた。結構な力で、青年は顔を壁にぶつけていた。ふっと頭をよぎったのはミネアポリスの黒人拘束死事件、白人警官によって殺害されたジョージ・フロイドさんのことだ。全米にデモが拡大し、一部が暴徒化、ついに今日は催涙弾が使われ、デモ隊の発砲で警官が4人撃たれてしまった。
「エンジンを切れ! ぐずぐずすんな! 早く手伝えって言ってんだろ!」
怒鳴っている警官の興奮度合いは凄まじかったが、たまたま、そこにいたのはぼくだけであった。怒鳴っている警官は黒人青年を壁にぐいぐいと押し付けていたが、フロイドさんの地面に抑え込まれていた映像と重なった。この黒人青年は重そうなリュックを持っていた。
「リュックをおろせ! それをおろせ、すぐにそこにおろせ!」
と警官が指図すると、青年はリュックを地面に放り出した。その時、ジャラジャラ、という金属音がした。重そうなリュックを抱え、挙動不審だったのだろう。リュックに爆弾とか凶器が入っていたら、と警官は思ったに違いない。事態に気が付いた警官が3人がかりで取り押さえはじめた。その時、4年前の、もう一つの事件が頭をよぎった。
2016年にフランスでも24歳の黒人青年、アダマ・トラオレさんがパリ郊外で警察に逮捕され、やはり警官の一人が体重をかけて青年を地面に押さえつけている。この青年は連行される途中に意識を失い、死亡した。このニュースが今日は朝からフランス中で報道されていた。パリ郊外ではアメリカの事件を受けて、今日、米仏のジョージとアダマのために、2万人がデモを行った。しかも、ほとんどが若い人たちであった。そして、ぼくはそういう緊張感のある状況下で同じような事態に遭遇してしまったわけである。
携帯で撮影するか迷ったが、もし、この青年が無実でその身に何かがあった時に映像がないといけないと思い、普段はしないのだが、時期が時期だけに、交差点の反対側から撮影した。でも、警官の肩を持つわけじゃないが、荒々しい場面だったにもかかわらず、警官たちは取り乱しつつも冷静さはぎりぎり保っていたと思う。その青年は警察車両の中に連行されたし、足取りはしっかりしていたので、ぼくはそこを離れた。想像するに、着ている服装や、言葉がちょっと通じにくそうな感じから、パリに入ったばかりの移民の子だろうと推測された。あのリュックには観光地で売っているエッフェル塔のキーホルダーなどがドサッと入っていた可能性がある。すぐ近くにエリゼ宮があるので、警官たちも必死だったに違いない。
しかし、20年近くパリで生活をしているが、白人のフランス人がこういう感じで壁に押し付けられる様子を目撃したことはない。だいたい、尋問されているのがアラブ系かアフリカ系の青年たちである。テロ直後は特にひどかった。警戒する気持ちもわかるが、ぼくの友人のアラブ人の若者たちはワンブロックごとにIDを提示しないとならない時期があり、明らかに差別だ、と怒っていた。怒りというのは蓄積され恨みに形を変える。ぼくはパリに移り住んで一度もこういう尋問を受けたことがない。しかし、待てよ、そう言えば、一度、10年ほど前のことだが、帰国時に中目黒の路上で3人の警官に囲まれ職質を受けたことがあった。免許証が失効した直後で、身分を証明できるものがなかった。ロン毛だし、ロックっぽい恰好をしていたので、明らかに身なりで判断をされた。なので、ぼくは大声でZOOを熱唱し、ECHOESの元ボーカルです、と訴えた。3人の警官たちがECHOESを知っていたか知らないけど、ぼくはまもなく解放された。
フロイドさんの拘束死は人種差別抗議から始まり、トランプ政権への不信、不安、不満で拡大した。背景にはコロナ禍による史上最悪の失業問題が絡んでいる。米中が香港で揉めているタイミングでのこの収束の見えない抗議デモ、気になって仕方がない。何が起こっても不思議ではないこの世界の状況、米国と強い繋がりのある日本も対岸の火事では済まされない。全米の動きを注視する必要がある。
※パリの裁判所の前で行われた黒人差別への二万人デモ。