JINSEI STORIES
フランスごはん日記「自分が死ぬ時、ぼくが振り返るだろう我が人生を想像し、今日も生き切る」 Posted on 2024/12/03 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、人間というのは、食べて寝るのが基本だね。
仕事をする。携帯を覗く。誰かと会って飲んだり話したりする。
あとは、ぼくの場合は、仕事、をする。
絵を描くことが仕事と言えるのか、わからないが、絵を売っているので、立派な仕事だろう。文章を書く。洗濯、掃除、犬の世話・・・。
そして、寝る。
これを繰り返して、たぶん、最後に繰り返せなくなって、人生は終わる。
その時に、ああ、終わるな、と思う時に、自分がどういう気持ちか、想像してみる。
満足をしているか、後悔をしているか、不満があるか、さ、どれがいい。
ぼくの小説「日付変更線」に登場するヘンリー・サカモトという登場人物が、最後の瞬間に言う言葉があるのだ。
上下巻の小説の最後が、彼の最後の言葉で締めくくられている。
それは、こんな言葉だ。
ぼくは、この一生が終わる時、どういう言葉を残すだろう。
気の利いた言葉を残したいところだけれど、それだけの余裕があるだろうか。
しかし、この人生にはどういう意味があるのだろう。
食べて、寝て、起きて、働いて、悩んで、笑って、泣いて、また、寝て・・・。
こういうことの繰り返しなのだ、あらゆる人たちが・・・。
うまくいく人もいるかもしれないが、人間は多かれ少なかれ、波乱万丈なのだと思う。
人によって、人生の捉え方も様々なのだろうが、ぼくが小説家でよかった、と思えるのは、一度しかない人生だが、登場人物たちに憑依することで、いくつもの生を、いくつもの人生を、生きることが出来るから、かもしれない。
最近、とくに絵の創作に集中をしているが、これがまた、言語を超越出来、小説に負けないくらい、生に浸ることできるので、これも、これで、悪くない。
ただ、作品作りに没頭しすぎ、時間が失われ、遊び歩かなくなったので、友だちは減るし、誰からも誘われることもなくなったし、長谷っち曰く、近づき難いオーラが出ているらしいので、ずっと、同じようなリズムの中で、ぼくはぼくの孤独の中で生きている。
愉しみは、食べることだ。
即物的だが、その瞬間は、楽しい。
ぼくは、ぼくの幸せを、探しているのだろう。
きっと、みなさんも、そうでしょ?
昼、Kマートで買ったサーモンのサクを刺身切りにして、チラシを作って食べた。
うまかった。酢飯がいい感じにできたのが、超嬉しかった。
ちょっと冷めて、ちょっと硬くなった感じがいいんだよね。
包丁は、魚の筋を切る感じで、手前に引く。
すっと、一気に引き、そのまま、魚の切り身を横に移動させる。
これを繰り返す。
刺身は手前に包丁をすっと一気に引くことで、美味くなる。
大トロなどは筋を断ち切るようにすっとやる。
長い筋は、噛み切れないから、包丁で切っておくと食べやすくなる。
物事には、それなりの、ルールというものがある。
大トロに比べれば、サーモンなんか、おちゃのこさいさい。
生き返るように綺麗に切り分けられたサーモンは、食欲を、そそる。
いただきます。
ということで、チラシを食べていると、最近の仲良し、額装屋のフィリップから電話、
「でけたよー」
というので、食後、散歩がてら、フィリップの店に出かけ、久しぶりに、父ちゃんの守り神、「La Tolerance(赦し)」とご対面。
おお、いい仕上がりだね。
実はこれは、今度のアトリエの玄関に置こうと思っているのだ。
ドアが南西向きなので、金を置くといい、と方角にうるさいスタッフのアドバイスで、それならこの絵がよかろうと思い、額装をしたのだった。
ぼくの最後の言葉ね、なんだろうか。
それを口走る瞬間が楽しみでならない。
父ちゃん、ご満悦。この服は、作業着なのであーる。
つづく。
今日も読んでくれてありがとうございます。
最後の日に、よく生きたな、と思えるような、最大限ベストを尽くした人生をおくりたい、と思っているかもしれない。自分に納得をして、この世界から去りたい。やり残してもいいけれど、その日まで毎日、コツコツがぼくらしい、と思っている。絵が、額に入り、西日を受けて、語りだしそうなこういう瞬間が、好きだ。赦し、という言葉、大事だね。ありがとう。また、明日。
次のツジビル・ラジオ生放送は12月5日、パリからになります。父ちゃんが優しく楽しく寄り添うおしゃべりをおとどけいたします。人生のあいまに、頬を緩めてくださいまし。詳しくは下のTSUJIVILLEのバナーをクリックしてみてくださいねー。
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