JINSEI STORIES
ニッポンごはん日記「人間ドックで人生を振り返りながら、谷川俊太郎さんの詩と死を思う」 Posted on 2024/11/22 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、8年ぶりに、「人間ドック」に入った。
入った、というのか、よくわからないが、MRI、CT、腎臓肝臓などのエコー検査、血液などの全検査、だいたいやってみた。
スタッフさんも、息子までも、「やってください」とうるさいので、ぼくを高齢者扱いして、ま、大丈夫だと思いつつも、最近、知人が不意に他界するので、でも、検査で何かひっかっかっても、日本で治療はできないし、何もわからないでそのまま消滅するという手もあるのに、などと考えながら、MRIで頭部の輪切り診断を受けたのだった。
「うるさいので、ヘッドフォンをしてください」
と渡されたヘッドフォンから、サザンオールスターズの「渚のシンドバッド」が流れていて、なんか、不思議な感じがした。
直後、ドラム缶を叩くような様々なノイズ、ああ、これだった、MRI、の凄さを思い出し、脳の中を見ず知らずの怪しいい電磁波が通過中なのか、とびびっていた。
大勢の人が、全員、男性だったが、受付に殺到し、
「つじひとなりさん」
と呼ばれるたびに、周囲を意識する、自意識過剰な父ちゃん。
なんか、パジャマのようなものを着せられ、スリッパ、はだしで、マスクをして、ロン毛で、明らかに変な初老のおやじが、
「あ、ぼくでーす」
と手をふりあげたりしていた。
「じゃあ、つじさん、次は、CTです」
「はいはい」
機敏に動く看護師さんのあとをひたすらついていく、男。
また、看護師さんが、セクションごとで、変わるので、目まぐるしい。
この病院は、六本木ヒルズクリニックさん、ヒルズの6階にある病院で、実は、2010年くらいに、東京国際映画祭のコンペティションに映画「アカシア」が選ばれてレッドカーペットを歩くことになったのだけれど、その朝、幽霊に投げ飛ばされ、廊下に顔面を叩きつけられ、15針縫う大けがをしたのだった。
その時にお世話になったのが、この病院であった。
その後、ぼくは離婚をし、シングルファザーになったのだけれど、いろいろとメディアに叩かれたので、体調を崩し、病院の先生たちが、検査をすすめてくださったのだ。
それで、2016年に、一度、人間ドックを受けた。
その後は、頭部の手術を担当した、福岡の済生会病院で頭部の検査だけ続けてきたのだけれど、寄る年波には抗えず、この年齢で、一度、やっときましょう、とみんなに背中をおされて、・・・今ここ。
8時間の時差がある中、日本に入ってすぐに便を二度も採取しないとならす、なかなか、出せと言われて出せるものじゃないし、思うようにできないのが人生なのだ!
「つじひとなりさーん」
と言われるたびに、なんか、恥ずかしくなって、笑顔を浮かべたり、挙動不審になった。
MRIは20分も穴倉の中に、頭を突っ込み、けたたましい音を聞きながら受けないとならず、世の終わりのような奇妙な状態だからこそ、逆に、ぼくは考えさせられた。
もしも癌とかがあったとしたら、どうする?
肝臓とか、腎臓とか、臓器のどこかにもはや手遅れのなにかが発見されたら、どうする。
どうするかねー、でも、運命ならば、もうしょうがないだろう。
でも、フランスで生まれた息子のために、せめてあの子が安心できる相手と結婚して家族を持つまでは、頑張らないとならないかな、などと考えたり・・・。
生きることへの強い執着はないのだけれど、あと、創作だけが気がかりかもしれない。
欲深いとすれば、あと一枚、絵を描かせてもらいたい。
あと、一作、どうしても書かせてもらいたい。
ぼくは、24時間のうち、今だと、10時間はキャンバスと向きあい、8時間は文字を打っているので、残りの時間で、生活を回している。
ぼくから、創作をとると、実に何も残らないつまらない男なのである。
そんなぼくの身の上に病が発見されたなら、きっとぼくは、創作の時間が減ることにまずがっかりするだろうし、ストレスを感じるに違いない。
若い頃から今日まで、あまりに多くの創作をしてきた。ぼくにとって、死ぬということは、これを終えるということを意味する。
一昨日、詩人の谷川俊太郎さんが亡くなられた。
谷川さん、ぼくが30歳のころに、ぼくの家まで遊びに来てくださったことがある。
ぼくの現代詩文庫に推薦文を寄せてくれたこともあった。
それは、こんなものだった。
「辻さんは、詩にとりつかれているけれど、ぼくは詩に疲れている」
うまいことを詩人は書く。
彼はずっと詩人だった。
一度、大阪の厚生年金会館だったか、どこかの大ホールで、谷川俊太郎さんを招いてイベントをやったことがあった。
ECHOESの演奏をバックに、谷川さんが自作の詩を朗読したんじゃなかったか、と思うけれど、ちょっと記憶が定かじゃない。
「ぼくのおちんちんは、ロケットだ」
みたいな言い出しで、若い観客たちを熱狂させたものだった。
でも、ある時から、会わなくなった。パタッと、会わなくなった。
なぜだろう。
接点はあったのに、会わなくなった。
たぶん、ぼくがフランスに渡ったからかなァ。
でも、30歳のころ、谷川俊太郎さんから、受けたものは、大きかった。
「辻さん、ぼくはね、はじめてやってくる仕事は全部一度受けてみることにしているんだ。でね、ダメだな、と思ったらもう二度とやらないんだ」
この言葉は、その後のぼくの仕事を決める指針となった。
さすがに、詩人だ、いいことをごまんと言った。
なぜ、谷川さんと会わなくなったのか、実は思い当たることがある。
ぼくはあの人が怖くなった。
ぼくは表現者の中で詩人を一番、恐れている。
なので、様々な表現方法を模索するぼくのようなアーティストは、ある時、彼らの強い視線にさらされる。
でも、そこで、ひよると、ぼくはぼくではなくなる。
なので、会わなくなった。
ぼくの創作は誰にも理解してもらえないし、それでいいと思っている。
表現をすることって、孤独じゃないとできないこともあって、仲間の輪のようなものは、ぼくにはない。
ぼくはどこのサークルにも所属していないし、誰とも近づかない。
とくに尊敬する谷川さんのような詩人に、近づくのは危険極まりない行為だった。
偉大な人の前で、委縮していては、何もできなくなってしまう。
尊敬していただけに、近すぎる、とある時思って、離れたのだ。
でも、ぼくの記憶の中には、森の妖精のような詩人の柔らかい光が、まだ、見える。
詩に疲れた、と言った彼の言葉は、ぼくへの厳しい平手打ちでもあった。
もう、ぼくには時間が無さ過ぎた。
あと何年、生きられるかわからないが、やり切れるかどうか、わからないぎりぎりのところで、創作をしているので、議論している暇はない。
自分に納得できるかどうか、がここからのぼくの存在をかけた時間ということになる。
凄い人はたくさんいるので、その凄い人と自分を比較しないように、自分の世界を死守しながら、ぼくは宇宙を突き抜けたいと思っている。
たぶん、ぼくがやり切りたいことは誰にもわかっていない。
ぼくがわかっていないのだから、わかるわけもない。
でも、もし「生きる」ことが何かと訊かれるなら、自分が納得したい、から、その時間をそこに全部費やしている、というものが、ぼくにとって「生きる」なのだ。
耳をふさいで、ぼくはどこにも属さず、ひたすら、ぼくの宇宙を創造しているのである。
エコーの検査が終わった時、さりげなく、先生に訊いてみた。
「どうですか? ぼくの肝臓や腎臓は」
すると先生が言った。
「前回と変わらない感じ。正常ですよ」
チャンスがもらえるなら、自分の時間を全部、費やしたい。
ぼくのことを世界が発見するのは、ぼくがこの世を去った後だ。
えへへ。
つづく。
今日も読んでくれてありがとうございます。
六本木ヒルズクリニックでの人間ドック、楽しかったですよ。感情を見せない看護師さんもいれば、「正常です」とちょっと安心させてくれる人もいて、様々でしたが、生きることが、そこにはあって、名前を呼ばれるまで、みなさんと椅子に座っている自分が、面白かったです。こういうところから、何かが生まれるんですよね。乞う、ご期待。