JINSEI STORIES
滞仏日記「バゲットを振り回して他人を近づけない社会的距離マダム出現」 Posted on 2020/05/14 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、食料を買いに行ったら、物凄い光景に出くわした。ぼくはレジには並ばないで自動精算機で支払いをしていたのだけど、お肉の値段をマシンが読み取れず、若い係員がやって来て、ぼくにかわって数字を打ち込んでくれていた。すると、背後で、
「近づかないでよ、あんた!」
と声が飛んだ。
驚いて降りかえると後ろの精算機の前で年配のマダムが持っていたバゲットを振り上げ、振り回し、別のやはり年配のマダムを威嚇していたのである。冗談じゃなく、それはまるでチャンバラのようであった。昔、友だちとビニールバットでよくやったっけ、チャンバラごっこ。そんな感じだった。
「それ以上、こっちに来ないで、近いでしょ? もっと離れなさいよ」
とマダムは神経質に叫んだ。最初二人は同世代のようだし、知り合いのように見えてたのだけど、そうじゃなかった。あとから来たマダムは隣の精算機で買い物をしようとしたに過ぎなかった。自動精算機は五台ずつ向き合う感じで並んでいるが、割とどれも近い配置なのである。パチンコ台みたいな感じだ。バゲットを振り上げられたマダムは一瞬、そりゃあ、驚くでしょうね、顔を引きつらせて後ずさりをした。マスクをしていても、引き攣っているのがよくわかった。
「ソーシャルディスタンス!」
とバゲットマダムが叫んだ。
「社会的距離とらなきゃダメなのよ。あなた知らないの? 」
と威嚇マダムが言った。もう一人のマダムがぼくと目が合った。訴えうような目である。ぼくは肩を竦めて、同情をした。
周囲にいた人たちも驚き、二人の様子を見守っていた。バゲットを振り上げたマダムはかなり神経質になっている。食料品の詰まった袋を鷲掴みにすると、ちょっと大回りをして立ち去った。ぼくを見て、さらに大回りをして逃げていった。若い店員が、
「ロックダウン中、毎日こんな感じのもめ事があるんですよ」
と言って、嘆息をこぼした。毎日、そりゃぁ、大変だ。
みんなマスクをしている。そして、みんな他人を警戒している。ロックダウンになる前のパリの光景ではなかった。黒マスク、白マスク、青いのは最近中国から大量に入って来たマスクだ。面白柄の手作りマスクも多い。日本のコンビニで売っているようスケスケ雨合羽を着て手袋とマスクをした完全防備の人もいた。そしてFFP2と呼ばれる鴨のくちばしのような、唯一コロナウイルスを通さないと言われるマスクをした人も多い。実はこのマスクをみんな欲しがっていて、でも、処方箋がないと手に入らない。やっと、マスクが市場に出回ってきたけど、一時期は手に入らず、高級品であった。知り合いの歯科医のそうちゃんが送ってくれたマスクだけが結局、二ケ月待っても届かず行方不明のまま(他のものは届いている)、しかも、それはぼくだけじゃなく、いろいろな日本人たちがこの被害を訴えている。想像したくないことだけど、マスクが郵送の途中で何者かに盗まれているのかもしれない。
あんなにフランス人はマスクを毛嫌いしていたのに、ロックダウンが解除になった後、ほぼすべての人がマスクを付けている。マスクを付けていない人の方が圧倒的に少数派なのだ。フェイスシールドをかぶった人も結構いた。みんなびくびくしながら、人とぶつからないように、人を避けながら、買い物をしていた。これは社会復帰までに長いリハビリが必要だな、とぼくは思った。
帰り道、この辺では老舗のカフェの給仕長のポールが店の前で日向ぼっこをしていた。あれ、やってるの? と訊くと、ずっと閉めてるわけにはいかないので、テイクアウトで料理と飲み物だけはじめたんですよ、と言った。
「店はいつから?」
「それが、まだ何にも決まってなくて。政府から何の音沙汰もなし。5月末から再開という話でしたけど、本当になんの指示もなくて。今、協議してるんでしょうかねぇ」
「マジか? これまで通りの営業再開は難しそうだね」
「そうですね、きっと、カウンターとか難しいでしょうね。パリの名物なのに、カウンターにびっしり並んでコーヒーを飲んでる人たちの姿はしばらく拝めなくなるかもしれません。後、テラスもきついかな。うちはほら、ごらんの通りぎゅうぎゅう詰めだから、このままの状態での再開は無理。どうするかオーナーと話し合ってるところですけど、いずれにしても、政府から指示が出ないと身動きとれないので、困ってるんですよ」
ポールは肩を竦めてみせた。
「やっていけるんですかね。やめちゃう店も出てくるからもしれないです」
バゲットを振り回したマダムは来ないだろうな、とぼくは思った。一応、ロックダウンの解除はやったものの、街がこれまで通りの姿に戻るにはやはりそれなりの時間がかかりそうだ。観光地パリに活気が戻って来るのは、いつのことになるのだろう? 秋? それとも、来春? それまでみんなで持ちこたえていくしかない。