JINSEI STORIES
滞仏日記「欧米に比べ日本人のコロナ犠牲者が圧倒的に少ない理由」 Posted on 2020/05/04 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、いったいぼくらはどうなるのだろうと考えながら、外出証明書を持って外に出たら、公園の入り口に哲学者のアドリアンがいた。やあ、エクリヴァン(作家)、と言うので、やあ、フィロゾフ(哲学者)とぼくは言った。
「浮かない顔しているな」
とアドリアンがニヤニヤしながら言った。彼はベンチに座っていつものごとく葉巻をふかしている。
「哲学者的にはこの迷路に迷い込んだような状況から、われわれ人類はどうやって精神を保てばいいと思う?」
と訊いてみた。彼は不敵な笑いを浮かべて、道は二つある、と即座に言った。
「深刻にならないか、深刻になるかだ。前者が俺で、後者がお前だ。違いは、俺は悩まない、お前は悩んでいる。悩んでいることでお前の方が分が悪い」
ぼくらは社会的距離以上の距離を保って向かい合っていた。
「なんで俺が分が悪いんだ?」
「俺もコロナに罹らないように気を付けているけれど、俺は自分を追い込んでない。でも、お前は必要以上にいつもコロナのことを考え、必要以上に怯えて大事なものを失ってる」
それが何か、と質問をする前に哲学者はこう切り出した。
「もちろん、俺も、新型コロナウイルスは怖い。でも、もっと怖いのは、全地球規模的、同時進行的、つまりシンドローム化して広がっている新型コロナを恐れ過ぎることで生じる人類の心の不安定感に巻き込まれることだ。今までの日常が一変し、異常な事態に追い込まれたことで、必要以上にみんな精神的防衛本能が働いて社会生活が出来なくなりつつある。俺から言わせるとこっちの方が怖い。だから俺はみんなが家から出なくても、こうやってベンチで葉巻を吸って、ずっと、一人で青空を見て過ごしている」
「政府の言いつけを守らなくて繁華街に出て行く能天気な奴らが感染の媒介になってるんだ。よく考えてものを言え」
「ツジ、俺の大学には医学部があり友人の一人が免疫学のドクターなんだが、そいつが面白いことを言った。市販のマスクなんか、ウイルスは軽々と通過している。もし、本当に罹りたくないなら家から出ない人生を選ぶしかないんだって。或いは防護服を身に着け、ゴーグルをつけて、外出するしかない。一生、そんな生活が出来るか?」
アドリアンはニヤっとほくそ笑んだ。
「俺もコロナは怖い。でも、そんな精神的刑務所に入るような生活をして狭い家の中で一生過ごしたいとは思わない。だから、俺の範囲で罹らないように心がけているけど、必要以上のことはしないことにしている。たとえば、これは俺の仮設で何のエヴィデンスもない話しだけれど、医者だってころころ意見が変わるし、フランス政府だってマスクは効かないとか最初言ってたくせに今頃になってマスク付けろって言い出しやがった。実はまだみんなよくわかっちゃいないんだ。ただ、俺が感じてることだけど、もろに飛んできた飛沫が目に入ったら一気に大量のウイルスが体内で増殖するかもしれない。しかし、俺の免疫で打ち勝てる程度のウイルスなら、逆に罹っても重症化することはないし、軽症とか無症状で終わる可能性があるんじゃないか。或いは、抗体が出来て、もちろん、抗体を持ってもまた罹るということもあるかもしれないが、年月が経てば、これは平均化されて、俺は思うけど、5年くらいしたら、地球規模で集団免疫を獲得しちゃうんじゃないかって。すでに結構な人間が抗体を持ってるんじゃないかって。ようは、一つの賭けなんだけど、上手に恐れて、必要以上に恐れない、ことが精神的には重要だということだ。前にも俺はお前に言ったと思うが、俺はずっと待ってるんだ。コロナに罹ることを」
アドリアンは確かに前にも同じことを言っていた。
「葉巻を吸ってるような奴がコロナに罹ったら重症化する」
「いいや、ツジ、最近の研究で、コロナはニコチンに弱いという説が出ている」
「ほんとか?」
「だから、言っただろ、みんなまだ何も知らないんだよ。今日、ルモンドで日本についての長い記事が出ていた。なぜ、日本人は死者数が少ないのか、という記事だ。マスク、握手しない風習、もともと人との接触を持たない人間関係、インフルエンザの時期には気を付ける国民的気質、綺麗好きなど、に所以すると書いてあった。ま、目新しい記事じゃない。言いつくされた情報だった。でも、俺は違う見解を持ってる」
「違う見解?」
「ああ。ツジ、日本の死者数は500人くらいだろ、人口は1憶2千万人だっけ?韓国は人口5千万人で250人くらいだ。中国は人口が14億で、死者数4500人程度ということになってる。これ、よく考えて見ろ、同じ比率なんだよ。人口に対する死者数は中国、日本、韓国は同じってことだ。中国が嘘をついているという奴が欧米人には多いけど、俺はこういう理由で、この数字はそれほど間違えてはないと思ってるんだ、今のところ。そもそも日本の死者数はそこまで大きく誤魔化せない。肺炎で死んだ人の中に多くのコロナ陽性患者が紛れているかもしれないが、千人以上も紛れているか?日本政府がコントロールしているという人もいるかもしれないが、さすがに500人と5000人では違い過ぎる。フランスの死者は2万4千人を超えてる。これはどう考えてもおかしい。BCGを接種した人間は罹りずらいという説を日本人は信じているようだけど、それもあるかもしれない。お前は接種したか?」
ぼくは頷いた。
「そうか、それは安心材料だ」
ぼくはこっそり、中国と日本と韓国の人口と死者数の比率を計算し、それと欧米のをさらに比較してみた。たしかにアドリアンの説には一理ある。
「ツジ、日本の比率とフランスの比率で比べるとぴったし二百倍の差があることになる。もし、フランスが日本と同じ比率で死者が出たとする。そしたら240人しか死んでないことになるんだよ。つまりヨーロッパはアジアの二百倍死んでるんだ。つまり俺の結論はアジア人はコロナに強い。白人は逆に弱いということだ」
これはいったい、どういうことなんだ? そもそも僕は算数が苦手なので、倍率の計算が出来ない。
「アジア人はそもそも罹り難いんじゃないかって思って仕方がない」
「ただ、その説はどうかな? アメリカにいるアジア人はずいぶんと罹ってるよ」
今度はアドリアンが黙った。ぼくらは少し間をあけて、お互いの考えを整理することになる。
「白人に多い皮膚癌がある。メラノーマだ。プチっと皮膚の上に出来る黒子の癌みたいな奴だが、アジア人には少ない。そういう人種差は絶対あると思う。アジア人と白人は俺とお前ほど見た目も違のだから、中身も異なって当然じゃないか。今、ロシアで感染爆発しつつあるけど、白人だからね。もちろん、エビデンスはない。黒人はどうだろう? 感染がアフリカで拡大したら、分かることかもしれない。どちらにしても、日本はあまりに少なすぎる。中国人観光客を世界で一番受け入れていたくせに、この程度で済んでいる。感染はするけど、死ぬまでいかない理由はなんだ? ツジ、どう思う? 」
その説が当たってくれたらいいな、と思ったら、不意に口元が緩んでしまった。アドリアンも笑った。
「それは置いといて、だとするならば、なおさら、防護服を着て外出をする必要があるだろうか? 日本人は今まで通り、マスクをしていればいいんだ。欧米を真似て握手もハグもしないでいいんだよ。一生、コロナを怯えて生きて何になる。俺みたいに罹るのを静かに待つ。市販のマスクではコロナは防げない。宇宙飛行士みたいな恰好でいつかお前とバーで並んで飲むことになるだろうか? それともお前はもう世界中、どこにも旅行もせず、レストランにもいかない、電車にも飛行機にも乗らない人生を生きるつもりなのか? 孤島にでも引っ越して」
「もちろん、それが真実ならば、日本人にはいいニュースだけどね。でも、額面通り信じることは出来ない。マスクをして今まで通り必要以上に警戒して生きる。ぼくはぼく、君は君だ。どっちが正しいかはいずれ分かる。5月11日が来ても安全が確認できるまでは注意を怠ることはない。それがジャパニーズスタイルだ」