JINSEI STORIES
滞仏日記「息子に、おやじー、と言われた。どうしたん?」 Posted on 2020/04/28 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、少し前から、10時から19時までジョギングが出来なくなった。というのは人々がやたら日中走るので、マクロン大統領が怒って、日中はテレワークしなさい、ということになったのだ。ま、そうだろうな、とぼくも同感であった。外出に関して言えば、ぼくは今まで一度も外出証明書の提示を求められたことがない。なので、ぼくが住んでいる地区では、何度も外出証明書を新しく書き換えて、消えるボールペンなどを使って、午前中一時間走って、昼めしを食べたら、午後、また新しく印字した外出証明書にサインをして買い物と称して歩き回って、夕食後、またサインをして散歩とかしている輩がいる。アドリアンとかピエールとか、不良おやじたちのやりそうなことだ。で、問題は息子だ。ジョギング禁止となった日から彼は再び家から出なくなってしまった。
光合成しないと免疫力が下がって、コロナに罹るぞ、と脅かしたら、昼食後、光りの差す部屋で筋トレをやりはじめた。ま、子供たちは確かにコロナを怖がっている。感染者は政府が発表した数字の10倍はいるだろう、と専門家が言っていた。で、あいつは何をしているのか、と言えば、日中はリモート学校で授業を受けている。先生の声が聞こえてくる。おやつを持っていくふりをして覗いてみた。まるでオフィスワーカーみたいな感じで、パソコンに向かってヘッドフォンをかぶり、モニター画面に並ぶ難しそうな数式とにらめっこ、先生の説明を聞きながらノートに何か書き込んでいた。学校が終わると、今度はウイリアムとかアレクサンドルとか仲良し連中の声が響き渡る。それが深夜3時くらいまで続くのだから、不健康極まりない。おやつを持っていくふりをして覗いたら、息子君、女の子とテレビ電話で話し込んでいた。室内のライティングは流行りのLEDライトだ。授業中は明るめ、男友だちと遊ぶ時はブルー、寝る前のガールフレンドとのひと時はムーディーなパープルカラーである。
女の子は明るい子で、パパの知らない子だった。息子が「邪魔しないで」みたいな顔したのでお夜食をそっとテーブルに置いて、ちょっとだけからかってやった。大きな声で「サリュ―。セ・パパ(やあ、パパです!)」と二人の世界に割り込んだのだ。息子が変な顔をして僕を睨みつけた。「ボンソワムッシュ」「ボンソワ、マドモアゼル。チュバビアン?(こんばんは、お嬢さん、お元気?)」と言ったら、次の瞬間、「おやじー」といきなり息子に日本語で怒鳴られてしまった。この、おやじ発言。めっちゃ衝撃的で、ぼくは生まれて一度も「おやじー」と言われたことがなかったので、心臓が飛び出しそうになった。どこで覚えたん?と訊いたら、息子は笑って、女友だちに「おやじ」について説明しはじめた。するとその子が「ぼんそわ、おやじ」と真似をした。近づいて、テレビ画面をのぞき込むと、わー、可愛い。え、もしかして、もしかして、もしかすると、
「お前、もてるのか?」
と訊いてしまった。ついでに、頭をひっぱたいてやった。
「おやじが思っているよりもね、たぶん」
と息子がへんな日本語で返事をした。
「あのね、その、おやじって、ちょっと使い方、間違ってるんだよね。おやじってのは、もうちょっとお前が大人になって、パパに認められるようになってきたところで、ちょっとお互い照れくさいってのも手伝ってだな、男同士だし、ま、対等になった息子感を醸し出す時に、おやじって言ったりするんだ。仲のいい証拠でもある。そういう時、息子はせがれになるんだよ。せがれ、わかったか」
一瞬、間があいて、テレビ電話の中の女の子が、「クワ? ケスキラディ?(なに? なんだって?)」、と甘い声で息子に訊いていた。そこでぼくはその子に教えてやったのだ。
「お嬢さん、日本の親子関係について大事なアドバイスをしてやったんですよ。息子をよろしくね。じゃあ、お邪魔しましたー」
せがれの肩をぽんぽんと叩いて、ぼくは退散したのである。おやじはなかかに新鮮な響きであった。ロックダウンな夜だというのに。