JINSEI STORIES
滞仏日記「なぜ、生きているのかと考えてみるのが今かもしれない」 Posted on 2020/04/25 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、今日はずっと窓をあけて、外を、というか空を見ていた。快晴ではなかったけれど、時々晴れ間のある、でも、ほんとうに穏やかな風が吹き抜ける、いろいろな記憶をまさぐられる、心地よい一日だった。ぼくは2020年の4月のパリにいるのだけど、目を細めると、あの日が見えた。いろいろなあの日だ。あの日の連続が今、ぼくをここに連れてきた。最初に思い出したのは、どこだろう、多分、ウブドじゃないか、と思う。蓮の池を見ていた。そうだ、その直後にスコールになって、視界が見えなくなった。ぼくは古い建物の軒先に退避したのだけれど、すっかりずぶぬれだった。叩きつけるような雨のせいで、地面が乾いていたからか視界がけぶるようになって、一瞬で、ありとあらゆるものが、見えなくなった。少し落ち着くと、反対側の建物の軒先にツーリストの家族がいて、一番小さな女の子と目が合った。不思議だけど、不意に思い出した。その瞬間しか覚えてない。線画のような斜めに降りしきる雨の向こう側からぼくを見つめる少女。ぼくはたぶん、32歳くらいだったと思う。
瞬きをするとその日は消え、別のあの日が現れる。あの日もやっぱりこんな感じの穏やかな空で、雲が、そうだ、雲がずっと海を覆っていたのだけど、でも、不思議な安心感があり、不穏な気配があり、ぼくはまだ相当に若かったと思うけれど、何に対してかわからいけれど、生き急いでいた。ブライトンの浜辺で、長い桟橋が続いていて、そうだ、ブライトン・ピアがあった。英国のロックバンド、THE WHOに関連した映画「さらば青春の光」に影響され、そこへ行ったのだと思う。でも、よくわからない。小さな町で、もう何も覚えてないのに、このブライトン・ピアをぼうっと眺めていた自分をなぜか俯瞰することが出来る。浜辺に立って、結構、波が高くて、曇天で、かっこいい、と思った。あの日のあの瞬間、吸い込んだ海の匂いとか風の音だけが記憶に残っている。
でも、…その海繋がりだからであろうか、思い出した、25歳の夏、ブルックリンの最南端にあるコニーアイランドにぼくはいた。あの日、マンハッタンから地下鉄で行ったのじゃないか。ボードウオークがあって、ぼくはそこに立っていた。一人で行ったんだ。あの日、あの時も同じ優しい風が吹いていた。晴れてるわけじゃなかったし、今日と同じように曇ってたけれど、でも、心地よい日だった。胸がちょっと切なくなる、淡い物語を思い出すような、匂いのある、春だったのかな? 遊園地があって、古いジェットコースターがあった。それが、まるで恐竜の骨のような、つまり化石のようなという意味だけど、アメリカたいしたことないなって思ったら、ぼくは笑ってしまった。でも、昨日のことのようによく覚えている。スティーヴン・ミルハウザーの「イン・ザ・ペニー・アーケード」みたいな世界だ。でも、ボードウオークは好きだ。あれは人類が生み出したものの中で、一番、ウキウキさせられる仕掛けだと思う。あの海、あれも一つのぼくの物語のはじまりだった。あの日だった。
アメリカは一度、アムトラックに乘ってニューヨークからロサンジェルスまで旅したことがある。あのバカでかい列車の中で寝た。あの日、アムトラックが中西部の名もない駅で不意に停車した。真夜中のことで、たぶん、乗客は寝ていたけれど、ぼくだけが起きていた。大陸を移動する列車が、不意に止まった、という、実に、もの凄い出来事をぼく一人が経験していたことになるのだろう、愉快だった。小さな窓から外をみたら、オレンジ色の低いプラットホームがあって、西部劇に出てきそうな。もちろん誰もいない、駅で、なんのための停車だったのか、いまだにわからない。まるで、でも、夢の中にいるような不思議な心地よさの中にあった。あの日、ぼくはどんな夢を見たのだろう。38歳だったと思う。記憶が間違っていなければ、あの日、ぼくは誕生日だった。あのオレンジ色にはもう一つの別のあの日があった。
たぶん、28歳か29歳くらいの時だったと思うけれど、ぼくは、コロンボから北へずいぶんとバンに揺られて走った先の、ほんとうに地図にものっていないような小さな村にいた。どこまでも続く果てしない農地が広がり、象の群れがいた。チャンダシリという名のお坊さんが着ていたのがオレンジ色の法衣だった。遠くの象、流れる雲、太陽がその向こう側から大地に、そうだ、梯子で降りてくるような感じで、ゆっくりと降り注いでいた。かつて見たこともない景色で、それ以降も見たことがない。仏陀との出会い。あまりに雄大な時間が流れていて、そういえばみんなオレンジ色の法衣を着ていた。チャンダシリはどうしているのだろう? あまりに多くの人に会い過ぎた。
サントリーニ島の沈む夕陽もオレンジ色だった。あの日、40代半ばのぼくは、もし自分が死ぬ時が来たら、お墓には入りたくないな、と思った。湖面のような永遠の凪の海がひたすら目の前に広がっていて、そうだ、風さえも拭いていなかった。サントリーニの家々は断崖に建っていて、みんな傾斜する土地で暮らし、斜めになりながら上ったり下りたりをしていた。あの日、死んだ後の世界のことを生まれてはじめて想像した。もし、今生が終わるなら、自分はこういう境地の中に戻るだけだ、と思った。もちろん、ぼくは最初から輪廻には関心がない。生まれ変わりたいとか、もう一度やり直したいとも思わない。消えたい。消えるために、今を記憶しているのだ。今見ているものが全てだ、と知っていた。
あの日、ぼくは貧困の街シウダファレスにいた。家と呼べるような建物は一つもない。ベニヤ板で作られた家が地平線の向こうまで続いていて、犬と赤ん坊だけが吠えたり泣いたりしていた。ぼくが歩くと、人々の視線が追いかけてきた。でも、あの日の雲は優しく、まるで綿菓子のように、太陽を包み込んでおり、穏やかな風がその貧しい家々の間を流れていた。少年が僕を手招きしたけれど、ぼくは微笑み、首を左右にふった。エルパソとの間に、鉄条網が聳えていた。四半世紀も前のことだ。トランプ大統領が壁を立てると宣言するよりも、ずっと前に壁のようなものはすでにあった。その金網まで行き、エルパソの人々を見つめた。あの日、ぼくは人間とは何だろう、と思った。人間とはなんぞや、ということを考え始めたのは、この星のあちこちでぼくを見つめる人々の視線のせいだ。あなたに問う、あなたはなぜ生きている?
あの日、ぼくはマラケシュのスークにいた。永遠に続くマーケットだ。ものが溢れていて、こんなものを誰が買うのか、と悩むような、ある意味、意味のない意味が積み上げられえていて、路地で男たちが賭博をやっていたし、信じられないものが展示されていたし、そこに生き死にの全てがあったし、ついでに、誰かにぼくは追いかけられ、狭いスークの中の迷宮で迷子になってしまうのだった。あの日、やっぱり、同じような空が広がっていて、でも、建物はもう少し低くて、人々の皮膚は白かった。黒いビールを飲んで、たしか誰かと待ち合わせていたのだけど、思い出せない。その人は来なかった。ダブリンの交差点で途方に暮れて、どうしたらいいか、と混乱していたのに、結果としてはその20年後、ぼくはまだ元気にこうやって封鎖されたパリにいる。同じような空を見上げながら、苦笑してしまった。30歳の時にアベニューBで目の前に止まったタクシーの中からアンディー・ウォーホールが降りてきて、やあ、と言った。本物のアンディーだった。ぼくらは立ち話をした。それはただの偶然だったけど、会う予感がしていた。「こんなところにいちゃだめだ」とアンディーはぼくに言った。でも、こんなに生きるだなんて、思いもしなかったよ。あの日、渋谷の交差点の前で、そうだ、ぼくは20歳とかそのくらいの時のことだった。パルコの前でのこと、ホームレスの男に、おにいさん、と呼び止められた。「誰にも支配されない芸術家になりなさい」と言われた。その時の空が、たしか、こんな色だった。