JINSEI STORIES

退屈日記「辻仁成がガイドするパリ散歩ツアー」 Posted on 2020/04/19 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、一日に一度、外出証明書の散歩運動欄にチェックをすれば、一時間散歩が出来るので、今日は読者の皆さんを引率してぼくがガイドをしてみたい。ロックダウンになってから雨が降ったのは数えるほど、それも通り雨のような。あとはこのひと月、嘘みたいに快晴が続いている。気持ちがいいので、出かけよう。車の走っていない、こんな非現実的なパリ、なかなか見ることが出来ないし、角度を変えてみると面白いよ。散歩に行く時、何か一つ小さな目的をぼくは持つようにしている。今月の目標のようなものがあると、その月に張り合いが出るのと一緒で、今日は少し離れたところにあるパン屋のめっちゃ美味しいバゲットを買って帰ることにした。

バス停の壁が広告掲示板になっているのだけど、今は広告主がいないので、このような感じでパリ中のバス停に医療従事者の皆さんへの感謝ポスターが貼られてある。本当に、毎日、彼ら彼女らは最前線にいる。少しずつ集中治療室の患者数が減り続けているので、祈りが通じつつある、というところだ。メルシーボク。

退屈日記「辻仁成がガイドするパリ散歩ツアー」

路地を曲がったら、青い門が半分だけ開いていて、おや、誰かいる、と思ったら、マリア様だった。ぼくは小さくお辞儀をして、こんな時に申し訳ないですが、日本もよろしくおねがいします、ありがとうございました、とお祈りしておいた。ぼくはいつもお祈りをしている。信仰もないのだけど、想いというのはきっと届くと思ってる。で、何かをお願いする時は、すべて、過去形で言うようにしている。ありがとうございました、と。過去形にするお願いは叶うのだ。やってみてね。

退屈日記「辻仁成がガイドするパリ散歩ツアー」

おやおや、これは紅葉? いや、似てるけど、紅葉じゃないだろうね。でも、ふと、京都の嵐山にでもいるような気持ちになった。やった、日本にワープだ。嵐山の竹林をよく歩いたなぁ、次に行けるのはいつだろう。行きたいと思う気持ちが希望なんだと思う。希望を持つということは大事だ。次の電柱まで歩こう、次の電柱に到達したら、その次の電柱まで行ってみよう。そうやって、ぼくは生き続けてきた。今は、毎日がそんな気分だ。誰かを憎みたくない、自分を汚したくない、青空を心に描いて、今日を静かに生きていたい。

退屈日記「辻仁成がガイドするパリ散歩ツアー」



ものすごく古い車が停まってる。これ、イギリスのオースティンだね。中を覗いたけど、もちろん、革張りなんだけど、もうその革がめっちゃ年季の入った渋い色になっていて、へー、と唸ってしまった。ものを大切にしている人がこの車に乗ってるんだろうな。きっと動かなくなったり、寒かったり、いろいろと大変なんだろうけど、時空を超えてる感があって、こっちまでにんまりしてしまったじゃないか。車を運転するたびに、違った世界に行ける、そういう車だ。

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お、もう一台古い車を見つけた。と思ったら、そこに赤ちゃんを抱えた若いお母さんがやって来て、壁に背中をついて、日向ぼっこをはじめた。お母さんが赤ちゃんのために歌って聞かせるソプラノの童謡が素敵だった。あたり一帯に響いて、それはあたかもコンサートのはじまりだった。観客はぼくだけだ。音楽があることは救われる。人間でよかった、と思える。この子はこの愛情たっぷりのお母さんの歌声を聞きながら育っていくのだろう。大きくなーれ。

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振り返ると、壁の上に藤の花が咲いていた。若いお母さんの歌声を聞きながら、藤の色の鮮やかな色に心を奪われてみる。

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広場に出たら、若いお兄さんたちが古いお濠の縁の1メートルほどの高さの石の塀に社会的距離を保って並んで座っていた。ここまで、数人しか会わなかったので、こんなに大勢の人がいて、何をしているのだろう、と思って携帯を写真モードにして構えたら、次の瞬間、信じられないことが起きてしまった。この瞬間、カメラを構えていなければとれない奇跡の一瞬だった。そうだ、これは奇跡である。

退屈日記「辻仁成がガイドするパリ散歩ツアー」

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え、え、え、? 君たち、何もの? なんで、そんなことできるの? サーカスの人が練習したくて、ここに集まったの? 彼らが逆立ちしたその向こう側は深さ3メートルほどのお濠なのだ。落ちたら大変じゃない? こんなことが出来るってことはプロだろうね。なんだか、わからないけど、いいものを見せて貰えた。いい日だ。ありがとう。カメラを構えて、彼らが元通りになるまで30秒ほどの出来事だったよ。神様、なんて気の利いたことをしてくれるのですか? メルシーボク。



さて、お目当てのパン屋に到着。なんと、ラッキーなことに今焼きあがったばかりだという。トラディションという伝統的スタイルの外はパリパリ、中はもちもちのバゲットを買った。生き物のように温かい。ふわふわで、パリパリ。今日はおうちでミネストローネを食べるんだ。辻家のミネストローネは食べるスープだよ。

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どうでしたか? これでだいたい小一時間のパリ散歩が終了となるけど、意外と歩けるでしょ? いい運動になった。家に戻り、スープを作って、焼きたてのバゲットを息子と二人で齧って、最近、どう? と訊いてみよう。うん、いいよ、相変わらずだけど、とあいつはこたえるだろう。世界は一変してしまったけど、ぼくらの日常はまだここにある。美味しいスープを食べる前に、ぼくはこっそり、感謝をする。メルシーボク。

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