JINSEI STORIES

滞仏日記「みんな元気? どうしてる? また会おう」 Posted on 2020/04/19 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、ロックダウン(外出制限)がはじまって5週間目に入った。毎日、一度は買い物か散歩のため外出しているが、それも長くて30分程度で、あとはずっと家の中にいる。出かける時は相変わらずマスク、眼鏡、帽子、サージカル手袋を手放せないが、パリは日本の人がイメージするようなカオス状態ではない。むしろ、清掃車もごみ収集車も毎日やって来るので意外に綺麗なのだ。車が走ってないので大気汚染もなくなった。このひと月、一度しか雨は降らなかった。あとは快晴。規則正しい生活をみんな送っているし、外に出ると、けっこう、散歩してるご近所さんとすれ違う。ただ、行きつけのレストランやカフェやクリーニング店とか画廊とか商店は閉まっている。この光景にも慣れてきた。ブルドックを連れているカップルがいたので、
「オリビエとローラだろ?」
と後ろから声をかけた。二人は驚き、ぼくを振り返る。
「そこのワイン屋の店主のエルベがね、君たちがこの通りに引っ越してきたことを教えてくれたんだよ。写真も見せられていたから、すぐに分かった。いつも、ブルドックを二匹連れて散歩してるって」
「やあ、はじめまして。ご近所さんだね」とオリビエが言った。
「最近、越してきたのよ、こんなタイミングで」とローラが苦笑しながら肩を竦めてみせた。
フレンチブルドックがめっちゃ可愛かった。すぐにこの人たちだと分かったので声をかけてみたのだけど、とっても気さくな二人だった。
「これからワイン買いに行くところなのよ」
「じゃあ、エルベによろしく」
ぼくらは社会的距離を保ったまま、別れた。ロックダウンの最中でも、こんな風に新しい知り合いが出来るくらい、ある意味、パリは長閑になった。パリジャンたちがロックダウンとの上手な付き合い方を心得てきたようだ。ロックダウンが始まった直後はみんな物凄く緊張していたし、引き攣っていたし、急にみんな消えてしまい、街が不意に静まり返った。でも、ある意味、ロックダウンの方向性が分かった今、力の抜き方、長期戦の戦い方がつかめてきたのである。



この先、4週間もロックダウンが継続することになったので、どこかで気を抜いていかないとやっていけない。本当に、長い戦いなのだ。長い戦いだと思っておくべきだ。短期決戦はこのウイルスにはありえないし、根を詰め過ぎると、身が持たなくなる。最悪なことは考えちゃいけない。楽しい音楽を聴いて、窓をあけて光りを取り込み、こうやって社会的距離をとりながら、一人で口笛でもふきながら散歩していればいい。ぼくは「青空の休暇」だと思っている。

閉鎖しているカフェを曲がったところで、「お元気ですか?」とカップルに声をかけられた。誰だっけ? あ、上の子たちだ。一度、水漏れの時にこの若い二人と会ったことを思い出した。シアンスポ―という政治家や官僚を目指すような人たちのための大学に通っている。大学というより、そこは、もはや、エリートを育てる組織みたいなところで、なんと給料を貰いながら勉強することが出来る。官僚・政治家養成学校みたいなところだろうか。マクロン大統領もここを通過している。
「よくぼくのこと覚えてたね」と驚いて返すと、
「実は、あなたが弾くギターと歌のファンになっちゃって。毎日、聞かせてもらってるから」
とムッシュの方が笑顔で言った。
「マジ? ロックダウンだからつい声が大きくなっちゃって、ごめん、うるさかったら言ってよ。おさえるから」
「ぼくら音楽大好きだから、遠慮しないで、ガンガンやってください」
ちょっと世間話をして別れた。古い建物だから、壁も床も薄く、筒抜けなのだ。でも、音楽好きな二人でよかった。真上にリスナーがいると思うと張り合いが出る。明日から、遠慮なく、もうちょっと大きな声で歌わせてもらうことにする。



行きつけのバーの前で、オーナーのユセフと店員のロマンと常連客のピエールが集まって雑談をしていた。ちょっと距離が近い気がした。ま、ぎりぎりかな。
「おいおい、君たち、ロックダウンの最中なのに集会したらダメじゃないか」
ぼくが大声で忠告すると、三人がぼくを振り返りパっと笑顔になった。
「ツジー、生きてたか? 大丈夫か? 息子も元気か?」
ぼくは通りの反対側から、ああ、でも、何してるの? だべってると罰金とられるぞ、と警告をした。仕事だよ、書類を政府に提出しないとならない、とユセフが書類をふって大声で言った。近づいて、雑談に加わりたいが、ぼくは社会的距離を守って、通りを渡ることはない。
「みんな元気かな? アンティーク屋のディディエとか、シェフのメディとか、カフェのクリストフとか、整体のパトリックとか、無事かな?」と大きな声で訊いた。
「無事みたいだ。アドリアンはあとで顔出しに来る」とピエールが言った。
「常連とかで入院した人とかいるの?」
「さあ、それは分からないけど、今のところ近場はみんな生きてるよ」
「生き抜こう。絶対に、罹るなよ」とぼくが念を押した。
ウイ、ウイ、ウイ、と三人が笑顔で頷いた。人懐っこいいい連中だ。
「まだ、ロックダウンはあと一か月もあるんだから、気を緩めるな!」とぼくは大きな声で戻した。
ウイ、ウイ、ウイ、と三人が笑顔で手を振った。あの日飲んだロマンのマルガリータは最高だった。パリのカフェ文化の伝統を受け継いだ味だ。再びバーのカウンターで飲める日はいつだろう、と思った。日常を取り戻してみせる、とぼくは思った。そのためには絶対にコロナに罹っちゃダメなのだ。

渡仏して18年の歳月が流れている。気が付いたら、この辺で知らない人間がいなくなっていた。態度でかいし、目立つからね、仕方がない。新しくやってきた連中ともすぐに仲間になった。ロックダウンが始まった3月17日、フランスの感染者数は7730人で、死者は178人だったが、僅かひと月で感染者数111821人、死者数は19323人になった。正直、もう、数字に麻痺してしまって、それが何を意味しているのか、分からなくなってきた。でも、減少に転じていて、じわじわとロックダウンの効果が出つつあるのも事実だ。

ぼくらにはいつの間にか、ルールが出来上がっていた。社会的距離をとり、感染させない感染しない地域を作ること、あまり暗くならないこと、必要以上に神経質になり恐れ過ぎないこと、ロックダウンの中でも明るく生き抜く、すれ違ったら出来るだけ笑顔で、人に優しく、差別をしない、こういう暗黙の了解だ。通りですれ違う時には、誰からともなく、道を譲り、大きな社会的距離をとるようになっていた。狭い店に入る時には、入場制限もあった。レジの前では2メートルの間隔をあけて待つ。ロックダウンシティの鉄則であった。

20時、いつもの医療従事者への感謝の拍手をする時間になった。息子が参加したのは一度だけだったが、ぼくは毎日欠かさず、窓を開けて、カルチエ(地区)の人たちと向き合い、手を叩いている。いつものメンバーが手を叩いていた。力強い拍手だ。拍手が終わる頃、みんな「ボンソワレ(良い夜を)」と言ってく窓を閉める。ぼくはいつも手を合わせ、最後に、ちょっとだけ祈っている。日本のことを祈ってることが多い。一万キロ離れた祖国が無事でありますように、と祈っているのである。

滞仏日記「みんな元気? どうしてる? また会おう」

自分流×帝京大学