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滞仏日記「哲学者が語った、コロナとの驚くべき向き合い方」 Posted on 2020/04/11 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、どこの町にも仙人みたいな浮世離れした人がいる。我が町にも、いつも葉巻をくわえ、よれよれの革ジャンを着て、プロレスラーみたいな体躯、ギャングみたいな風貌、スキンヘッドで、不敵な笑いを浮かべ、近寄りがたい男がいた。ある日、たまたまカフェで隣同士になり、よく通りですれ違う顔見知りだったので、話しかけたら、南アの大学の先生だった。しかも哲学の博士である。人は見かけによらないというけれど、確かに、その典型的なパターンかもしれない。

夕ご飯を済ませ、仕事場の窓際から月を見上げていたら、よー、エクリヴァン(作家)、と声がしたので下を見下ろすと、アドリアンだった。きっと、外出証明書など持たずにうろうろしているのに違いない。葉巻をふかし、いつもの不敵な笑いを浮かべてみせた。
「元気? なんも症状なしか?」
ぼくは、無いよ、そっちは? と訊き返すと、
「症状が出るの待ってるけど、今のところまだみたいだ」
と面白いことを言ったので、どういう意味さ、と訊き返した。
「遅かれ早かれ、人類のほとんどがかかることになるんだよ。そうならないと、終息なんてないんだ」
そういう話しを聞いたことがある。教育相のジャンミッシュル・ブランケが、科学者の間では50%から70%の国民がかかる、とラジオで豪語してたっけ。他にも同じようなことを言っていた医者とか知識人がいた。
「俺は罹りたくないね。罹らない残り30%の方に入るよ」
するとアドリアンは笑い出した。
「いいんじゃないの。日本人はマスク好きだから、可能だろう。でも、俺はあんなもので口や鼻を塞いで、日本人みたいに生きれない」
「なんで?」

滞仏日記「哲学者が語った、コロナとの驚くべき向き合い方」



「だから、簡単に言ってしまえば、とっとと罹ってしまいたいんだよ」
「そういうペシミスティックな意見は日々頑張ってる患者に対して失礼だ、アドリアン」
すると、笑っていたアドリアンが真面目な顔になった。
「そうじゃない、ツジ。いずれ罹るなら、早めに罹って、抗体を持ちたい。問題は重症化するかどうかだ。80%の人間は軽症で済むし、想像するに、無症状がほとんどなんだ。感染者数なんかあてになるものか、何倍も感染者はいる。重症化するのは65歳以上が全体の70%だ。俺は63歳だから、ぎりぎりセーフってことになる」
「アドリアン、お前馬鹿か? 」
ぼくらは笑い合った。たしかに罹れば抗体を持つことは出来るが、永遠ではない。その抗体がどのくらい持続できるかは人ぞれぞれで、中には3か月で消えてしまう人もいる。中国では二度罹った人もいる。
「ツジ、俺の周りの仲間たちもみんな罹った。ほとんどがちょっと頭が痛くなり、倦怠感に見舞われ、喉が痛くなって、で、おしまい。もちろん、中には重症化して入院してしまった奴もいるし、俺の周りの奴じゃないけど、大学関係者で死んだ人もいる。でも、全フランスの人口からすると、多くない。今日までに1万3千人ほどの死者が出てるが、インフルエンザで罹って死ぬ人の数知っているか? 肺炎にかかって死んでる人が何人いるか知っているか? 癌で死ぬ人や白血病で死ぬ人も大勢いるんだ。コロナだけが病気じゃない。その中に自分が入る確率はどのくらいだと思う? っていうか、いつか俺もお前も死ぬんだ。ほとんどの人が無症状で終えているのがcovid19の正体だ。なんで、こんなにバカみたいに広まってるのかって言うと、こいつは新種のウイルスだから誰も抗体を持ってない。だから集団免疫がないせいで、物凄い速度で感染してしまう。潜伏期間が長いし、無症状者が多いから、リンクの分からない重症者が不意に出てみんなビビッてしまう。絶対に罹りたくないなら、無人島に行くしかない。核戦争下のシェルターに逃げ込むような感じにならなきゃならない。この俺が、そんな生活できると思うか?出来ない。マスクをするのでさえも嫌なんだ。もちろん、重症化したくはない。呼吸するたびにガラスを吸い込むような苦痛を覚えるのもごめんだ。でも、ならない可能性の方が圧倒的に高い。だから俺は、早めに罹ってだな、軽症程度で潜り抜け、抗体を獲得し、早めにこの精神的な苦難から逃げ出したいんだよ。俺にとっては罹ることより、毎日、家の中でじっとしていることの方が命を脅かしている。そういう人間も大勢いるんだ。政府はとっととこういう封鎖をやめて、みんなに感染させるべきだ。集団免疫を持つしか、人類がこのウイルスに勝つ方法はないんだよ。お前作家だろ? そんなこともわからないのか?」
ぼくらは同じ月を見上げた。

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「軽症で済むか、重症になるか、わからんだろ。16歳の女の子も死んだんだ。葉巻ばっかりすって、いつも飲んだくれてるお前が重症化する確率の方が圧倒的に高いと思うけどね」
アドリアンは苦笑しながら、肩を竦め、それから葉巻をうまそうに噴かしてみせた。
「ツジ、もちろん、国のルールは守る。国民としてそれが義務だからだ。でも、心が壊れてまで生き残りたくはないんだ。普通に生きていても交通事故にあって死ぬ人間が数えきれないほどいる。アフリカでは数秒に1人の割合で子供が餓死してる。みんな騒ぎ過ぎるんだよ。バカみたいにビビり過ぎている。アホか。こういう意見を言うと、一部の人間に叱られるのはわかってるが、みんな怖がり過ぎてるんだ。コロナに罹っても、どっちみち、重症化するまでは、病院のベッドは塞がっていて、入れない。でも、人工呼吸器を何週間もつけないとならない。苦しくなったら昏睡状態にさせられ、運が悪けりゃ、そのままあの世行き。そもそも薬なんかないんだ。罹ったら、俺は自分の部屋の鍵をかけて、そこで自分の運を試すだけだ。おかしいか? 」
ぼくの知り合いの家族も新型コロナに罹ったが、ほとんど何も症状が出ないで終わっている。昨日、この日記で紹介したOさんの手記もだいたい似たような感じだった。その一方、テレビでは病院で苦しんで死んでいく人たちの映像が流れている。アドリアンのような考え方を否定出来るだろうか、と思った。
「なあ、ツジ、お前もここに来て、一緒に月を見上げよう」
ぼくはかぶりを振った。
「アドリアン、もし、ぼくが独り身だったら、君と同じ考え方を持ったかもしれない。でも、ぼくには守らないとならない息子がいる。そして、もし、自分が重症化したら、その子の面倒を見ることが出来なくなる。彼は欧州で独りぼっちになる。ぼくは絶対に罹れないんだよ。その上、仮に自分が重症化しなかったとしても、疾患を持っている人やお年寄りにうつすかもしれない。集団免疫の考え方は正しい。でも、そこへ行くまでにはいくつかの段階が必要だ。あの春の月はこの窓辺からだって見上げることが出来る。だから、遠慮しとくよ」
アドリアンは肩を竦め、君は正しい。日本の作家よ、と言い残し、歩き出した。彼も苦しんでいるんだな、と思った。
「ボンソワレ(良い夜を)」
とぼくは哲学者の背中に向かって声をあげた。アドリアンは手を振って、よろよろと去っていった。そうだ、彼には家族がいなかった。ずっと一人で暮らしている。もし彼が重症化したら、どうする気だろう、と考えた。鍵をかけて、そこで完治するのを待つのだろう。ぼくは騒ぎ過ぎているのだろうか、それとも正しく恐れているのだろうか。

自分流×帝京大学