JINSEI STORIES
滞仏日記「日本でも必ず足りなくなる。病床だけじゃない、この感染拡大で」 Posted on 2020/03/30 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、毎晩、20時になると、ぼくと息子は通りに面した窓を開け、隣人たちと一緒に拍手をおくる。中には「ありがとう」と叫んでいる人もいる。日々、休む間もなく戦い続けている医療従事者への感謝の拍手だ。ロックダウンがはじまってすぐにこの運動がフランス全土へと広がった。通りを挟んだアパルトマンの若い家族も、屋根裏部屋に住んでいる学生も、お隣のご年配のマダムも、一生懸命叩いている。でも、その拍手の音が医療従事者に届くことはないだろう。なぜなら、彼らは自分の家族にも会えないくらいの過酷な瞬間、瞬間を生きているからだ。
※息子とジョギングしている時に見つけた、医療従事者へ向けた感謝の垂れ幕。
今日現在、このフランス共和国において、一番の問題は医療従事者の不足である。あまりの人手不足から、リタイアした医師や看護師、医者になる直前の学生まで、可能な限りの戦力をかき集めている状態だ。特に看護師の現状は過酷なもので、保菌している可能性があり家族にも会えず、勤務後はベッドに倒れ込み、また自分自身に鞭打って出勤という日の繰り返し…。「自分が行かなければ誰かの命が失われるかもしれない」と若い看護師が泣いて告白する映像を昨夜テレビで観た。ここフランスでさえ、そうなのだから、もっともっと状況の厳しいイタリアやスペインでは、目を覆いたくなる状況が続いていることだろう。スケートリンクに並んだ死体、軍隊が火葬し、廊下に寝転び咳込みながら順番を待つ大勢の患者たち、ゴーグルの痕が刀傷のように目の周りについた医師の映像などなど…。毎日のように最前線から届けられるこれらの映像がこのコロナ戦争の深刻度を伝えてくる。しかし、残念なことに、最前線で戦う医療従事者の耳に、20時の国民の拍手が届くことはないかもしれない。それでも、この国で暮らしている全ての人間は感謝することしかできない。市民は、目を赤く腫らしながら、医療従事者の皆さんに惜しみない拍手を送り続けている。
3月29日、フランスの新型コロナ感染者は40174人、死者は2606人 、集中治療室にいる患者、4592人となり、エドワー・フィリップ首相は「しかし、この戦いはまだ始まったばかりである」と国民に向けて警告を発した。今現在、フランスが直面している問題は大きく分けて3つある。医療従事者の不足のほかに、医療機器の、そして医薬品の不足である。
医療従事者の不足の次に問題なのが医療機器。これは主に人工呼吸器のことで、特に重症感染者が集中するフランス東部(コルマールなど)では、機器が全く足りておらず、隣接するドイツがフランス人患者の受け入れを始めた。ちなみに、ドイツには人工呼吸器が備わったベッドが2万5千床あり、その数はフランスの5倍にあたる。(昨夜、保健相は、ベッドを全国で1万4千床に増やす計画を立てていると告げた)かつてこの地で激しい戦闘を繰り広げたドイツ人がフランス人を助けている姿が、心を揺さぶる。このコルマールという場所は、第二次世界大戦でもっとも過酷な戦場の一つだった。数年前、息子を連れて取材旅行をしたことがある。ここは1万人にものぼる米軍の死傷者を出した激戦地であり、その米軍のほとんどがハワイ在住の日系兵であった。(このことは拙著「日付変更線」に譲る) その日本人にもゆかりのある地域で、時を超えて、ドイツ人がフランス人に手を差し伸べているのである。
NHKの報道によると、新型コロナの患者が入院するために日本全国で確保されている病床は4800床あまり。(現時点ではそのうち3200床が空いている)現在、東京都には、感染症指定医療機関にある感染症に対応した病室の数はそのうち140床ほどが確保されている状態。(3月26日時点の入院が必要な患者はすでに223人に上っている)しかし、新型コロナ感染のピーク時には1日あたり約700人の集中治療や人工呼吸器の必要な患者が現れると予測されており、東京都は、現状、確保するのが大変厳しいと説明している。もしも、東京で感染爆発が起きたら…
そしてフランスでは、すでに医薬品の不足が深刻になりつつある。新型コロナの特効薬などは今のところ存在しないので、不足しているのは、集中治療室で扱う薬、クラーレ(神経筋肉遮断薬)や催眠薬、抗生物質などを指す。この薬の使用頻度がすでに限界を超えており、このままでは打つ手がなくなる、と現場の医師たちから悲痛な叫び声があがっている。マクロン大統領は「これは戦争だ」と言った。そして医師たちは「丸腰で戦場に送り出されている」と抗議している。これが今現在のフランスの医療の現場の状況と言える。
フランスは、これから迎える感染のピークを前に、この3つのすべてが足りていない。そういう報道が連日、各主要テレビチャンネルで繰り返されている。国民は医療従事者に感謝を伝えたくて、毎晩20時に窓辺に立ち、拍手をおくっている。通りに響く拍手の音が医療現場で歯を食いしばって頑張る看護師や医師に届いているとは思えないが、それでも人々が率先して手を叩く時、それは同時に、このような世界で生きている人々を励ます歌声でもある。しかし、最前線で戦う、ある医師が言った。とっても印象に残る言葉であった。
「申し訳ないが、今は音楽など必要ない。今、必要なのは人工呼吸器と予算なのだ」