JINSEI STORIES
滞仏日記「ロックダウンが決まったら、やっておきたい備え」 Posted on 2020/03/29 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、日本の知り合いから今日はたくさん問い合わせがあった。「感染者が急増し、ロックダウン(外出制限)が近づいている気がするけど、慌てないためにやっとくことはなに?」というような内容だった。マクロン大統領が全仏を封鎖するとテレビを通じてアナウンスしたのが3月16日の20時。思えば、国民への宣言から16時間後の、翌17日の正午にフランス全土が封鎖された。来るぞ来るぞという予感はあったので、ある程度の心の準備は出来ており、ぼくはそれほど驚かなかったが、経験したことのないロックダウンに向けて、準備しておくべきもの、買っておくべきものはなんだろう、と悩んだのも事実だった。
大統領の宣言からあまり時間をおかずにロックダウンがはじまるのには理由がある。イタリアが最初、北イタリアだけを制限したせいで、多くの人が南に移動し感染の拡大を許した。その轍を踏まないために、フランスは都市封鎖ではなく全土の封鎖に踏み切った。武漢の封鎖でも同じような事態を招いている。都市封鎖の欠点は人が外へと流出し感染拡大を生み出すこと。国全体を封鎖しないと、あまり意味がないかもしれない。
結論から言うと、実際、食べ物や必要品はなくならない。(マスクと消毒ジェルを除く)流通がとまるわけじゃないし、食料の生産を止めた国はない。でも、経験したことのないロックダウンというイメージがメガ都市の人々をパニックに陥らせ、一時的なモノ不足を招くことはある。ぼくが小さい頃に経験したオイルショックの時のトイレットペーパー買い占めは凄まじかった。恐ろしいのは人の行動心理であろう。ロックダウン初日は慌てたくないので、普通に必要なものが切れてないかチェックをし、切れていたらその分を補充しておけばいいと思う。生鮮食料品を買いだめしても冷蔵庫に入り切れなったりするし、冷凍しておくにも限度があるので、2、3日分の材料があればいいと思う。買い溜めのニュースを流しておいて、買い溜めする消費者をバカにする記事とか読むと、メディアが煽ってるからじゃないのか、と苦笑さえ起きる。家族のために備えたいという気持ちは理解できるので、現実的な範囲で必需品を備えておけば十分であろう。実際、大量に買い込んでも使い切れないし、ロックダウンになっても、スーパーは開いているし。パリも、生活必需品を売る店は朝の10時から夜の19時までずっと開いている。(スーパーの店員などはロックダウン手当が出るようだ)あれほど過酷な状況のイタリアやスペインだって、スーパーは開いている。生きていく上で必要なものは買うことが出来る。
ちなみに、フランスの場合だが、ワイン屋も開いている。
「いいの? ワインは贅沢品じゃないの?」
行きつけのカーヴ(ワイン屋)の店主に訊いてみた。
「あのね、フランスでワインは野菜とかフルーツのグループに入ってるから贅沢品じゃなくて、日常品扱いなんだよ」
と驚くべきことを言った。棚の上の方には一本150ユーロを超える高級ワインが並んでいる。
「贅沢品にしか見えないけどな」
「あのね、どっかの評論家がワインは贅沢品だから閉めさせるべきだ、とテレビで言っていたけど、ワインは葡萄なんだよ。欧州人は葡萄がないと生きていけないんだ」
ぼくは思わず吹き出してしまった。
「ロックダウンが延長になったから、どうだい、ムッシュ・ツジ。美味しいフランスワイン、買い溜めしておかない?」
食べ物や飲み物の心配がないので、他に準備しておくべきものは何であろう。個人的には家から出られないので、家の中で快適に過ごすためのものを買っておくべきかもしれない。ロックダウンがはじまると、間違いなく運動をしたくなる。運動不足になるので、室内で気楽に運動が出来る道具などを準備しておくといい。うちで大活躍しているのはヨガマットだ。息子と奪い合いになっている。マットさえあれば、ヨガも出来るし、筋トレも出来る、昼寝にもちょうどいい、実に便利だ。フランスの場合、ジョギングや散歩などは許されているので、持ってないなら、運動着一式があってもいい。外出できなくてストレスが溜まるので、入浴剤とか、アロマオイルとか、ビタミン剤などもいい。部屋の一角に、ささやかながら自分がリラックスできる空間を作っておくのはおススメである。ぼくと息子はリビングの家具をどけてスポーツのための空間を作ったし、窓辺のソファ周辺を「ラウンジ」と呼んで、お茶セットも設置、煮詰まるとそこで和んでいる。食材は手に入るので、むしろ調理器具を買い足し、ちょっと手の込んだ料理などを作ってみるのもいいだろう。普段は時間に追われているが、外出制限が出ると、やたら時間が余るので、今までちょっと手が出なかったような、やってみたかったことを試せばいい。バカでかい模型を作るとか、プルーストを読んでみるとか、料理の達人になるとか、肉体改造に着手するとか…。そのために買っておかないとならないものを買い揃えておく方が、トイレットペーパーを押し入れいっぱい備蓄するよりも意味が出てくることは請け合いだ。オイルショックの時代に買い占められたあのトイレットペーパーはどのくらいの時間を費やして消費されたことだろう?
さて、日記も書いたので、寝る前に、ヨガでもやることにするか。部屋を暗くして、蝋燭をともし、小さくスピリチュアルな音楽をかけて、宇宙と繋がり、瞑想をしよう。ロックダウンを利用しない手はないのだ。火星旅行に出たような気持ちでのんびり挑むのが精神的に楽かもしれない。とにかく、家から出ないことが、このウイルスを遠ざける唯一の方法なのだから。