JINSEI STORIES
滞仏日記「今、ロックダウン下で唱える欧州人のスローガンとは?」 Posted on 2020/03/26 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、パパ、新型コロナウイルスに人類が勝つ方法が一つだけあるんだよ、とキッチンに顔を出した息子が言った。それは何? ぼくはオランデーズソースを作りながら、訊き返した。今日のランチは、サーモンとアボカドのマフィンにする予定。息子は戸口から中を覗き込んで、
「それは家から出ないことだよ」
と口早に言った。
ここのところ外出制限(ロックダウン)のせいで、会話が減り気味な辻父子だが、久しぶりに息子の方から意見を言いに来たと思ったら、…。なんとなく神経質な顔をしている。一旦、オランデーズソースのことは脇にどけて、向き合うことにした。
「それはどういうこと?」
「地球上の人間が外出制限下で、法令を守って、一切、外出しなければコロナウイルスの脅威は間違いなく消える。単純なことなんだよ。ウイルスは人から人に移って複製して増えていく。人間が家から出なければ、感染もしないし、人に感染させることもない」
笑いもしないでいきなり真面目な話をし出したので、ちょっと精神状態が心配になった。休校措置が発令されてから、息子は一歩も外に出ていない。実は、親としてはそっちの方がコロナよりも心配だった。コロナウイルスの恐怖から人々が内側に籠って、無意識のうちにメンタルを壊している気がしてならない。
息子は仲間たちとコロナについていろいろ想像をしているに違いない。間違えた情報を信じている可能性もある。
「政府の指示に従い、全ての市民が家から出なければウイルスはある一定期間で死滅する」
「ま、そうかもしれないけれど、…」
「一部の人間がそうやって法令を守らないからいつまでも感染が続くんだ。もっと厳しい法律を発動して、一歩も外に出ないようにしないと地球は元には戻らない」
ぼくは息子に近づき、肩に手をおいた。
「お前は正しい。オッケー、でも、ならば君は部屋を片付けるべきだろう」
「部屋? なんで部屋の話しになるの?」
「窓を閉め切って、あんなに散らかった部屋でパソコンばかり覗き込んでちゃ、心に悪い」
「だって、他に何も出来ないじゃない。ネットのおかげでぼくらは仲間たちとストレス発散出来てるし、会えない先生たちからもネットで教えて貰えている。ネットの中で十分幸せなんだよ」
彼の言い分には一理あるし、「まずネットや電話で誰かと繋がるように」と精神科医がテレビで力説していた。一人になるのは危険なのだそうだ。
「まあ、それはいいだろう。じゃあ、一つ聞くけど、最後にシーツを変えたのはいつだ?」
息子の眉根がぎゅっと中央に寄った。彼は心のカレンダーを捲っている。
「…記憶にない」
「新型コロナも怖いけど、世界にはもっと恐ろしいウイルスがいっぱいある。だいたい、ペストも不衛生な場所から感染が広がった。不潔な場所をウイルスは好む。君の部屋は安全だと言えるのか? 君のベッドの下にウイルスの巣があるかもしれないぞ」
息子が驚いた顔をして、自分の部屋の方へ意識を向けた。
「ベッドマットや枕とか布団を太陽にあてないと危険だ」
「・・・」
「よし、今すぐ掃除をしよう。パパも手伝う」
ということで、今日は二人で息子の部屋の大掃除をやることになった。机の上には本が山積みだった。床にもいろんなものが転がっている。掃除機は週二回はかけているが、床とか窓ガラスまでは時間がなく拭けずじまいだ。とりあえず布団カバーやシーツを新しいものにかえないとならない。
「この機会に、大掃除をしよう。パパのベッドも全部やる」
二人で力を合わせてベッドを動かしたら、壁との隙間に埃の塊があった。息子も数歩、後ずさりした。
「ほーら、こんなじゃ、新型コロナにかかる前に肺炎になってしまうぞ」
ぼくはとりあえず、マットカバーを剥がした。すると、マットレスの真ん中に、ぼくはそれを見つけてしまったのだ。
「お、世界地図だ」
「世界地図?」
「これだよ、この真ん中の海図」
「かいず?」
「このマットレスを買った時に、お前がしたおねしょの痕じゃん」
「ええ? 違うよ!」
「違わないって、パパは何でも知っている。お前、パジャマのズボンを洗濯籠の一番下に隠したじゃないか。パパは何でも知っているんだ」
「違うよ。これは…」
一瞬の間が開き、息子が笑い出した。ぼくは息子の肩をぽんぽんと叩いた。
「いいか、健康でいることがまず何より大事。身体だけじゃない、心も健康でなければならない」
息子は笑顔で、ああ、と頷いた。明日は外に連れ出そう、とぼくは思った。
でも、息子が言った「家から出ないこと」はこの外出制限下のパリにおいては一番大事なことなのである。まさに今、ここ欧州で、ロックダウンのスローガンと言えば「je reste chez moi!(私は家にいる)」なのだから…。