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滞仏日記「欧州が危機の最中、ニコラ君がイチゴを届けてくれた」 Posted on 2020/03/14 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、全仏が休校になり5週間も家にいることになった息子のために、ぼくは近所のスーパーに買い出しに行った。シングル一家にとってこの状況下なので必要なものは買っておきたい。ということでスーパーに出かけたのだけど、ショック! すでに買いたかったパスタはほぼ売り切れていた。トマトの缶詰も残り少なかったので、とりあえず二缶くらい買い、それからぼくは途方に暮れてしまった。こういう時に、何を買えばいいのか分からないのである。ぼくは料理好きだけど、パンデミックの時に、何が必要なのか見当が付かない。パリは新鮮な魚を買うのが難しいので、肉ということになるが、5週間分の肉を買うことなどできないし、じゃあ、缶詰だと思って缶詰コーナーに行ったはいいが、日本のような美味しい缶詰は売ってない。サーモンか、ツナか、サーディンとなる。ツナ缶をちょっと籠に入れたはいいが、毎日は無理、ため息がこぼれた。市場は営業を続けるだろうか。でも、かなりの人込みだろう。今はやめておくか。実際、5週間分の食料なんか買えるものじゃない。仕方ないので、日持ちする生ハムを二パックくらい追加で買って、帰ることになった。片親というのはこういう時に大変である。やっぱり、不安だ。

滞仏日記「欧州が危機の最中、ニコラ君がイチゴを届けてくれた」



夕方、ニコラがお父さんと学校帰りにやって来た。なんと、イチゴの差し入れを持って。
「なにー、これ、くれんの?」
「ムッシュ・ドロール(おもろいおっさん)、いつも美味しいもの食べさせてくれるから、プレゼントだよ」
ニコラのお父さんが困った顔をした。そうか、ここの二人は共働きだった。どうするんですか、と訊いたら、ムッシュは肩を竦めてみせた。ご夫婦はちょっと揉めている。子供のことがあるから、別れず、なんとか夫婦を続けている。
「学校、休みになったね。これから暫くおうちだね」
二人ともとってもいい人なので、大人のぼくとしては胸が痛い。
「学校から、外出は控えるように言われているし、二人きりにさせていいものか、分からないし、ぼくも妻も仕事があるので、平日はどうしようもないので、とりあえず、交代でテレワークをすることになりそうで」
「パパ、テレワークってなに?」
「家で仕事をするということだよ」とぼくが教えてあげた。
すると、ニコラは、わーい、わーい、と騒ぎだした。
「パパとママとマノンと四人でいられるなら、学校なくてもいいや」
ニコラのお父さんがぼくの目を覗き込んだ。訴えかけるような目である。
「ぼくでいいなら、時々、ご飯届けに行きますよ」
言った瞬間、言っちまった、と思ったが、遅かった。
「その上に、ムッシュ・ドロールまで来てくれるならもっと嬉しいや」
ぼくはニコラの頭をさすって、笑い出してしまった。ニコラのパパも笑った。これも乗りかかった船というやつだ。週に一回くらい、ご近所だし、様子を見に行くことにしよう。



夜、トランプ大統領が「国家非常事態」を宣言した。(これは小説ではない。現実の出来事だ)感染者が1875人に膨れ上がっている。脆弱な医療制度を持つアメリカにとってこのウイルスは厄介だ。ちゃんと調べたら、衝撃的な数字が出てきそうじゃないか。アメリカの危機感は半端ないだろう。CDCは日本の対応を批判していたけれど、もはや、よその国のことをとやかく言える状態ではなくなった。フランスの感染者は驚くべきことに3600人を超えた。昨日より、僅か一日で800人も増えている。スペインも一瞬で4000人超え、イタリアは18000人に近づいた。この数字だけ見ていると、一週間前の世界が天国のようじゃないか。WHO曰く、今や欧州がパンデミックの中心らしい。イギリスの抜けたEUはタイミングが悪かった。EU諸国はEUの維持など考える余裕がなくなりつつある。もしかするとEUが存続できなくなり、保護主義が強まり、イギリスに続けとばかり、EUからの離脱国が増えるのじゃないか。EUの崩壊。そして、アメリカ経済が減速し、このままだと新型肺炎を制圧するかもしれない中国がその後の世界を牛耳るようになる。音沙汰のないロシアの出方も気になる。西側諸国の危機がはじまるのは目に見えてきた。実は、日本だけがまだどう転がるのか、ぼくは予測出来ないでいる。いいことも、そうじゃないことも、でも、まだわからない。

寝る前に、息子とニコラのイチゴを食べた。
「パパ、ぼくは政治を勉強したい。この世界に必要なのは人類のための政治かもしれないよね」
ぼくは息子が語るこの世界のことを黙って聞き続けた。黙って…。それにしても甘くて酸っぱいイチゴであった。

滞仏日記「欧州が危機の最中、ニコラ君がイチゴを届けてくれた」

自分流×帝京大学