JINSEI STORIES
滞仏日記「ちょっとお疲れ気味の父ちゃんを、幸せにさせるこの冬のケーキ。世界一でした!!!」 Posted on 2023/12/06 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、「先生、なんか、顔半分が青いというか暗いんですが、大丈夫ですか」
と携帯紛失マネージャーのMMが言った。
「額の左側が黒ずんでいます。近藤先生のクリニックに行ってください」
と、午前中のミーティングでそう指摘された父ちゃん、一気に暗くなった。
思えば、先月、三四郎の餌を拾おうとしてテーブルの角で頭を強打したし、交通事故にもあったし、突発性難聴のせいで倒れてその時も壁に額を打ったのだ。うーむ・・・。
過去に慢性硬膜下血腫になって頭の血を抜いたこともあるので、そういうものが出ている(頭部に血がたまる)のかもしれない、と心配になった。
ぼくらはサンジェルマン・デ・プレにある鉄板焼きの「麻布」でランチをしながら、来年のコンサート活動について話し合っていたが、顔の半分が黒いと言われ、病は気から、というが、不意に、もう駄目だ、となってしまった。
気が弱くなりやすい、年齢なのである。
MMは受験生を抱えているので、クリスマスから年末年始のこの時期はテレワークになっている。なので、打ち合わせが終わったら、さっさと帰っていった。
でも、残された父ちゃん、お会計をしながら、不安がよぎった。
トイレの鏡で確認しようと思って、トイレに行き、覗き込んだが、そこまで青いとか黒いという感じもしなかった。でも、たしかに、なんか翳があるかなァ・・・。
そういえば、昨日、リールで「顔の弛みをとる運動」というのを見つけたのだった。
グーにしたげんこつでこめかみのあたりをぐいぐいと後頭部に向かって引っ張り上げる運動だった。それを結構長い時間やったので、もしかしたら、毛細血管が切れたのかもしれない。げげげ、
思い当たるとすると、昨日の今日なので、それかな、と思った。
トイレの壁に、この店の常連さんたちの写真がずらりと並んでいたが、その中心に、野本がいた。奥さんと娘さんと3人だった。
なんだよ、あいつ、自分だけ幸せなんじゃないか!!!!
ライブもあり、映画公開もあり、ツアーもあり、個展も決まり絵も描いたし、三四郎の世話もあって、いろいろと大変であった。
休もう、と思った。
無理をして、脳とかに問題が起きたら・・・、やばい、誰もいないじゃん。スタッフさんはもちろん、助けてくれるだろうが、24時間連絡がつくわけじゃない。
そういえば、長谷っちから、昨日、手紙が届いていた。
「先生、健康が一番です。ご自分を大事にしてください。ぼくは焦らず、南の避暑地でのんびりと暮らしております」
暖かい土地で、静養している長谷っちは、正しい選択をした。コリンヌという素晴らしい嫁がいるので、きっと、大丈夫だ。
ぼくは? ぼくはどうしたらいいのだ。メニエール病が出て、倒れた時、一人だったら、誰が救急車を手配してくれるというのだ。
三四郎か!!!!
無理だ。そういうことを考えていると、冬空のパリは、あまりに冷たかった。
すると、とである。
その時、なぜか、ケーキ屋さんの前にぼくは立っていたのだった。ウインドー越しに、ぼくの目に留まったのは、モンブラン・ケーキ!
ぼくはガラスに手をつき、白い息を吹き付け、これを食べたい、と思った。明日、どうなるかわからないのだ。ならば、これを食べて幸せになってみたい。
ぼくは店の中に入り、店員さんに、
「あの、モンブランをください」
と言った。
黒人の小太りの、はつらつとした若い女性だった。
「ムッシュ、いくつですか?」
「一つでもいいかい?」
「もちろんですよ。幸せになりますよ」
「え?」
ぼくは驚いた。その子は、満面の笑みを浮かべてぼくにそう言ったのだ。気弱になっている父ちゃんに、今日、はじめて会った子が、幸せになる、と言った。
小さなミルクチョコレートボールを、こっそりと、袋の中にいれてくれた。プレゼントします、と言うのだ。えええ、マジか。天使に見えた。
「君、ちょっと聞きたいことがある」
「はい」
「ぼくの額の左半分が青いか、おしえてほしい。心配しているんだ」
ぼくはハットを脱いで、額を見せた。女店員さんが覗き込んだ。じっと見ている。
そして、こう告げたのだった。
「いいえ、心配するような感じには見えないです。髪の毛が長いから、そう見えるのかもしれません。痛いですか?」
「いいや、痛くないけれど、さっき、青いと言われたので、気になった」
「じゃあ、このモンブランを食べて、まず、気分をかえて。で、一晩、様子をみて、明日の朝、何かちょっと気になるなら、かかりつけのお医者さんに行ってみてはどうですか? 今、ご自身に自覚がないなら、様子をみる。ケーキを食べて幸せになれば、解決するかもしれません」
ナイス。
ぼくは、何か、気が晴れたような気分になった。やっぱり、この子は天使なのだ。
「ムッシュ、誰かに何か言われると、痛くなくても痛くなるものです。大好きなケーキを食べて、今日は早めにぐっすりと寝てみてください。明日、判断しましょう」
カードを受け取ると、ぼくは財布にしまった。
栗の季節に、新鮮な栗で作った、このケーキ屋のモンブランをぼくは誰もいない事務所で、三四郎に見上げられながら、食べたのだった。
本当に、おいしかった。パリで、この季節、一番おいしいモンブランの認定をしたい。
ちょっと幸せな気持ちになった。
でも、明日の朝、様子を見て、もし、気になることがあれば、迷わず、病院に行こう。
長い人生なのだ、用心に越したことはない、と自分に言い聞かせたのであった。
つづく。
今日も読んでくれてありがとうございます。
たぶん、何も異常はないんです。でも、言われると、何か不安になるのが人間ですものね。額が浅黒いのは生まれつきなのです。ハットのかぶりすぎ、ということもあるし。明日は、ちょっと、とある発表があり、ZOOMを使って、大勢の前で演説をしないとならない父ちゃんなので、その仕事が終わったら、もう一度、鏡を覗き込んで、考えてみます。ちゃんとご報告しますので、心配なさらないで、だいたい、ぼくの場合、作家ですから、ドラマティックな展開に筆がふれる場合が多く、えへへ、しゅいましぇん。
ということで、とある、発表は明日の日記でご報告します。ずっと口止めをされているので、あしからず。