JINSEI STORIES
滞仏日記「パリはクリスマスの飾りつけが眩い季節、見えないものたちに囲まれた世界」 Posted on 2023/11/13 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、2023年も最終コーナーに差し掛かった。
煌びやかなクリスマスの装飾が目にとまる季節になった。
父ちゃんは年の瀬を迎えるにあたり、どのように一年を締めくくるべきか、ぼんやり考えながら、ブラブラと市中を歩いてみた。
焼き栗の露店が街角に立ち、人々がそれを買い求める11月だ。
香ばしい焼き栗の香りが、通りに漂う。
デパートに入り、クリスマスが近づいているのを、感じてみた。
一銭も使わないのだけれど、美味しそうな食品を眺め、綺麗な洋服を眺め、幸福そうな人々を傍観した。そういう幸せがいいのかどうか、わからないけれど、そこにちょっと参加してみる。
高級ブランド、高級ワイン、高級食材、父ちゃんは買わないけれど、なるほどね、と思いながら、眺めるのが、趣味みたいなものだ。
上を見るときりがない。
とくに買いたいものがあるわけではない。
香水がほしいわけでも、セーターがほしいわけでもない。
そもそも、お洒落をしたいわけでもない。でも、自分のスタイルにあうものを探している。
それが何かわからないのだが、探している。
そして、なんとなく、そこに立ち、今の時代の今の風景を眺めている。
父ちゃんは三四郎のリードを引っ張りながら、交差点に佇み、行き交う人々を眺めた。三四郎も眺めていた。
いろいろ思うことがあるけれど、全部を受け止めることは出来ないので、静かにこの世界を静観している、というべきか。
何故か、みんな急いでいる。
ぼくも流れに従いながら、でも、ゆっくり、みんなの半分程度の速度で歩くのだった。
ふと、交差点で一人の初老の男と目が合った。
「ボンジュール」
とその人は言った。
その人は街の一角に自分の家を持っていた。
普通の交差点の角地、立派な建物の前に、どこかで拾ったマット、椅子、布団、小さな机などを並べ、まぁ、ある種の占拠をしていた。
パリは、そういう人が実に多いが、彼の場合は、かなりの繁華街に家を持っている点がほかのSDF(ホームレス)の人たちと違う点でもあった。
しかし、これもどういう理由でか、警察もそこらへんの住民も彼を排除しないのだ。
そして、それが家だというのは誰だってわかるが、みんな、彼を見ていない。
たまに、慈善団体の人たちが、見回りに立ち寄り、彼に話しかけている。パリは日中で10度、夜中になると、5度くらいだろうか。路上生活者にとって、危険な寒さが近づいている。
髭を生やしたその人は、時々、スーパーで一緒にレジに並ぶこともある。彼が手にしているのは、安物のウイスキーだ。
「ボンジュール」
とぼくは言ってしまった。
ボンジュールと言われたのに、ボンジュールと言わないのはおかしい。
でも、この人は、お金を求めることもない。
はじめて、彼の生活ぶりをマジマジと見たので、ちょっと驚いたことがあった。
彼が座る椅子の横に、分厚い本が何冊も積んであるのだ。
彼の膝の上にも皮装丁の本が開かれてあった。特装本というやつだ。(どこで手に入れたのか。誰かがもう読まないから、彼に上げたに違いない。なぜ)
何を読んでいるのか、もの凄く、気になった。
近づき、その人の目を見た。三四郎も従った。
彼が次に言う言葉をぼくは待つことにした。
なかなか次の言葉が出てこないので、積んである本の一番上の本の背表紙をみた。
ドストエフスキーだった。作品名のところが破れているので、判読できないが、ドストエフスキーであることは間違いない。
古本屋で売っているようながっしりとした昔の本だった。
その時、ぼくと彼と三四郎以外の人たちはもの凄い速度で、この世界の中を移動していた。
でも、ぼくと彼だけが、言葉もなく、ただ、向かい合ったままだった。
足元に、飲み干したウイスキーの小瓶が転がっていた。
それを飲んで、寒さをしのいでいるのだろう。
彼は何を言わなかったが、もしかしたら、微笑んでいるのかもしれなかった。
こうやって、いちいち立ち止まって、彼と向かいあう人は少ないのに違いない。
「ボンジュール」
と小さく、もう一度、言ってみた。
彼は、頷いていた。
しかし、それ以上の会話にはつながらなかった。
その人は再び、本の中に視線を落としたからだ。
ただ、彼はぼくに挨拶をしたかったのだろう。それは、たまたま、自分と同じ速度で生きているようなぼくを発見したので、言った、までに過ぎなかった?
ぼくは、不意に、心が揺さぶられるのを隠せなくなった。悲しくもない、嬉しくもない。
でも、揺さぶられている。この感情をどう表現していいのか、わからなかった。
この世界にはぼくらが気が付かない見えない世界がある。
この人には、襟を立てて急ぎ足で移動する人たちとは違う景色が見えているはずだった。同じ空なのに、違う空が彼には見えているのだろう。
ぼくは振り返ってみた。雨が上がって、太陽がそこに降り注いでいた。
あんなに美しいものはない、と思った。
それはクリスマスのどんな装飾よりも輝いてみえた。
「オルヴォア(さようなら)」
ぼくと三四郎はそこを離れた。
彼はもう、何も言わなかった。
振り返ると、交差点の一隅で、降り注ぐ光の中にいる、サンタクロースのようなその人が(遠くに)見えた。
次の瞬間、視界の先のその人は、行き来する車の残像の中でかき消されてしまった。
つづく。
今日も読んでくれてありがとうございます。
寒くなってきましたね。季節の変わり目、気温の変化も激しくなります。どうぞ、風邪などひかれませぬよう、お過ごしください。