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滞仏日記「ノルマンディから帰ったらパリがちょっと変化していた」 Posted on 2020/03/01 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、夜中、車を走らせ、ちょうど夜明けと同時にパリに辿り着いた。息子が起きる前に朝ごはん作ってやろうと思ったら、土曜日、学校は休みだった。朝ごはん作りかけていたが、やめて、シャワーを浴びた。一泊二日のノルマンディの旅だったけれど、いい気分転換になった。なんでもいいからぼくは気分を変えたかったのだと思う。そういう時は海を見に行くのが一番いい。苦しくなったら誰もいない海に行け。人間が戻る場所だからだ。

滞仏日記「ノルマンディから帰ったらパリがちょっと変化していた」



行きつけのカフェに顔を出し、コーヒーを飲んでから、近くのスーパーで買い物をした。週末に親子二人が食べる食材、骨付きチキンが安かったので、買った。自分は別に何も食べたくないのだ。自分一人だったらカップ麺で十分。ぼくは自分のために料理をしたことがない。ずっと家族のために料理をしてきた。気の長いマラソンのようなもので、ゴールは見えないし、栄冠もない。玉ねぎを切ってる時、涙が出る。どさくさに紛れて、わざと泣き真似をしたりしている。今日は、プロヴァンス風のチキン煮込みにした。レシピ連載をしているけど、自分はレシピを見ることはない。それだけ長く生きたし、それだけ料理をしてきたからだろう。うちの息子は残さず食べてくれる。もしも、ぼくに皆勤賞とうものがあれば、空っぽの皿がそのメダルみたいなものかもしれない。

滞仏日記「ノルマンディから帰ったらパリがちょっと変化していた」



「最近、どうなの?」
ぼくはチキンを頬張りながら、息子に訊いた。
「普通だよ」
「コロナウイルスのことで差別とかあるの?」
「ないよ」
「コロナのせいで嫌な思いとかした?」
「ないよ」
「何にもないの?」
「フランスの感染者が100人を越えた。4、5日前までゼロだったのに。パンデミックだね」
「WHOのせいだ」
「クラスメイトでイタリアに行った子が一人隔離されたんだけど、病院で検査したら陰性だったので明日から戻ってくる」
「それ、美味いか?」
「うん、美味しいよ」
この会話、SF小説みたいだな、と思った。これが世界中で今なされている会話なのだ。一月には想像もしなかった事態だけど、それでも世界が動いていることが不思議でならない。

夜、夕飯の準備をしていたら、息子がやって来て、パパ、イヴァンたちとマックに行くけど、ごめん、作ってるね、と言った。これ、明日でもいいよ、とぼくは言った。息子が遊びに出かけたので、ぼくはロマンの店にアペロに行った。ロマンが思いつきでぼくに作ったウイスキーとパイナップルのカクテルを飲んだ。強すぎる。
「ロマン、最近、どう?」
「いつも通りだよ」
「コロナウイルスの感染者がイタリアで千人超えたってよ」
「やばいね」
「気を付けてることとかあるの? アルコール消毒とか」
「ツジ、俺たち毎日アルコール売ってるんだよ。気を付けて売ってるよ」
ぼくらは笑い合った。
「これ、なんてカクテル、強すぎる」
「馬鹿(ベティーズ)という名前を付けた」
ぼくは酔っぱらった。パリが嫌いなのは海がないことだ。ぼくは海が見たい。でも、ここには波打ち際も、飛び交うカモメも、曖昧な水平線もない。ぼくはカクテルを飲み干して、
「ロマン、お会計」
と言った。酔うと、三半規管のバランスが崩れ、ぼくは波の上にいるような気分になった。ノルマンディの灰色の海を思い出した。
「いいよ、ツジ、それはぼくからのおごりだ」

滞仏日記「ノルマンディから帰ったらパリがちょっと変化していた」

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