JINSEI STORIES
滞仏日記「長谷っちが事務所をやめることに。今日は人生の新たな節目の一日であった」 Posted on 2023/06/05 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、携帯紛失したMMから、ラインメッセージが届いた。
「おさわがせしました。ライン復活しました。それで、前の携帯ですけれど、昨日、警察に行き、盗難届けを出してきました」
穏やかな日曜日の朝であった。
三四郎と散歩に出て、いつもの公園のベンチで人々を眺めていた。
アメリカ映画のワンシーンのような、小説の冒頭のような、木漏れ日の中から、遠くの光りあふれる風景をぼくは見つめていた。
「盗難届け? でも、タクシーに置き忘れたんでしょ?」
「そうですけど、携帯はその後、移動を続け、今、うちから500メートル離れた場所にあるんです」
「ほー、どういうこと?」
「誰かがそれをお金にしようと思っているのでしょうね。場所はアニメ学校をさしています。で、警察に相談にいったら、たぶん、あの携帯を誰かが売ろうとしているんだろう、ということになり、届け出をだしました」
「はぁ。じゃあ、中のデータとかとられちゃうわけ?」
「それはできないみたいで、ただ、ちょっと改造すると携帯本体は売れるみたいです」
「データ消去しなかったの?」
「前の携帯がWi-Fiに繋がった瞬間に、消えるみたいで、まだ今のところ繋がっていません」
「そりゃあ、お疲れ様でしたね」
「はい、目と鼻の先に、自分の携帯があるのに何もできないのだから、ストレスでした」
ぼくは、眩い6月の光りに目を細め、
「忘れないように、携帯に綱をつけておいてくださいね」
と優しく忠告をしておいた。
MMと入れ替わるように、今度は長谷っちから電話がかかってきた。
足元の三四郎を見下ろしながら、長谷っちのかすれた声に耳を傾けるのだった。
「その後、体調はどうですか?」
「はい、実はあのあと、いろいろと検査をして、特定はまだ出来ないのですけど、風邪ではないことだけはわかったのですが、なかなか安定はしません。で、この2週間、いろいろと考えて、今の仕事を続けることが難しいと判断をしました。すいません」
ぼくは、なんと言い返せばいいのか、わからなかった。
「電話で話すことではないのですけど、病名が分からない以上、先生にうつす可能性もゼロじゃないので、とりあえず、電話で要件を伝えること、お許しください」
ぼくは身構えた。
「その、たぶん、パリの空気が自分にあわないんだと思うのです。排気ガスとか花粉とか、いろいろと原因は考えられますが、先生を真似して、疎開しようかな、と思い始めていまして。妻の親が持っている田舎の家を暫く貸して貰えることになり、そこで、翻訳の仕事などをして、様子をみようかな、と思っています」
意外な展開だったけれど、なんとなく、そうなるような気がしていたので、心を落ち着けながら、黙って聞くことにした。
「小説を書くのもけっこう、体力がいりますし、これは自分の問題ですけれど、落選も続くと、心によくないですから、今回の夏の応募を最後に、書くことから少し離れて、森でも眺めて過ごそうかな、と思っています。無理を言って、先生の弟子にしていただいたのですけれど、仕事が続けられない以上、小説の道も断念する可能性もありますし、弟子は難しいと思うんですよね・・・」
「なんで?」
「え?」
「別に、小説だけじゃなく、あなたがよければ、ずっと弟子でいてください」
「ほんとうですか」
「それより、身体を直すこと、気力を取り戻すことが大事じゃないですか? 元気になったら、また、好きな小説を書けばいいし、小説って、仕事じゃないです。自分の心を覗く鏡のようなものだから、やめてしまう必要もありません。頭ごなしに、こうでなければいけない、と決めないで、ご縁を大切に、仲良く生きて生きましょうよ」
「先生・・・」
ということで、この後は、現実の話になったので、ここには書けないのだけれど、この夏のバカンスの時期に、日常を整理して、奥さんのコリンヌとカンパーニュ(田舎)へ、一度、引っ越しをすることになった長谷っちなのであった。
その病気は、よくはわからないが、医師の指導のもと、静養する感じで、暫く、いい空気を吸って、長谷川さんは、静かに生きることになりそうだった。
ぼくは運命論者ではないが、彼がした決断は正しい、と思う、と伝えておいた。
パリを離れる日が近づいたら、ちょっと対面をし、お別れ会をやることにした。
小一時間、話をしたので、携帯の充電がなくなってしまった。
三四郎はベンチの上に飛び乗って、ぼくの横で幸福そうな顔で寝ていた。
人生というものは、いろいろとある。
みんなに事情がある。
ご縁もあるが、思い通りにいかないこともある。
そのいろいろを受け止め、感謝をする時、これまでの人生が豊かになる。
人生は続く。
今日も読んでくれてありがとうございます。
いろいろとありますが、詳しいことはまた少しずつ。ところで、日本時間の今日(月曜日)、夕方の17時からNHKの「ゆう5時」という情報番組で、ぼくの短いインタビューが流れるようです。見てないので、全く、内容が分からないので、どこまでおすすめしていいのか、わかりませんが、数分のインタビューらしく(有馬嘉男アナウンサーが聞き手)、お時間あれば、ぜひ、ご覧くださいませ。
そして、6月18日はサンジェルマン・デ・プレ界隈を散策するオンライン・ツアーです。詳しくは下の地球カレッジのバナーをクリックしてみてね。
※ 日本公演のお知らせ。
「辻󠄀仁成 アコースティック セレナーデ フロム パリ 2023」
Tsuji Acoustic Serenade From Paris 2023
現時点で決定している出演アーティスト:
辻仁成(Vo・Ag)/Dr.kyOn(Piano・Chorus)/ユン ファソン(Flugelhorn・Trumpet・Chorus)
各会場:
8/29(火)愛知・名古屋DIAMOND HALL
open18:00/19:00
8/30(水)東京・EX THEATER ROPPONGI
open18:00/19:00
9/3(日)京都・京都劇場
open17:30/18:00
さて、ただいま、オフィシャル最速先行中です。「ぴあ」内に、このミニツアーの先行窓口が6月11日まで設置されています。
チケット購入を希望される皆さんは、下のURLをクリックお願いいたします。
https://w.pia.jp/t/tsujihitonari-k/
最速先行発売期間、5/30(火)09:00~6/11(日)23:59/日本時間